前回の最後に筆者は「波動体は波動体の「内に住まう」ことが出来るから、もうぴったりだ」といった。
このことはイエスの次の言葉の意味を明かしてくれる。(筆者には「ようやっと」わかった、という実感がある)
<父が私におられ・・・>
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「たとえわたしの言うことが信じられなくても、わざ(イエスの行うしるしと不思議)を信用しなさい。それは、父が私(のなか)におられ、わたしが父(の中)にいることを諸君が悟り、また知るため(のもの)です」
(ヨハネによる福音書、10章38節)
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括弧がいっぱい付いた聖句になったが、まあ、いいだろう。
このなかの「父が私(のなか)におられ、わたしが父(の中)にいる」がず~と筆者はわからなかった。
だが~量子力学思想のおかげで~いまはこう解読することができる~。
創造神もイエスもその本質は波動体だ。意識を持った意識波動体だ。波動体は波動体の中に住まうことが出来るので、「父なる創造神は御子イエスのなかにいる」ことができ、また、御子も「父の中にいる」ことができるのだ。
(ちなみに、創造神の波動体は、いのちエネルギーを自ら放射する波動体だ。そのエネルギーでもって被造の波動を造り、それを物質に変化させたりする。これが被造物の創造である。・・・そういうイメージだ)
<感覚がつかめない言葉>
さて、今回はこれに関連して聖書のキーワード「信じる」の意味をも明かしておこう。聖書に於いてはこの語は「キーワード中のキーワード」だ。
ところがこの語はよくわからないのだ。これは中国語から借用したらしい語だからだ。
われわれが言葉を感覚的にも理解しようとするには、その語が日本人の生活の中で出来上がってきた過程を追ってみることが必要だ。
だが、「信じる」はそういう出来方をしていないので、われわれにはその感覚がつかめない。いってみればその意味は扁平なままだ。
<やっとわかった難解用語>
だが、その意味は前回の考察が示してくれる。「意識波動体が意識波動体の中に浸って住まうこと」がそれだ。職人をめざす弟子が、親方の意識世界に浸り住まう事態・・・これが「信じる」の中身だ。
筆者は以後、このニュアンスで「信じる」を読んでいく。
もし読者がこの方法をフォローされるならば、聖書が一段とハッキリ見えて来るであろう。