前回までに、イエスが遺した夢の言葉~
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「(Ⅰ)「諸君がわたしの言葉に留まり、(II)わたしの言葉が諸君の内に留まるなら、(III)求めるものはすべて与えられます」
(ヨハネによる福音書、15章7節)
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~のうちの、(I)と(II)を解読した。
ここで臨時版を差し挟もう。
「うつを打破する聖書の論理」を追うと言いながら、筆者は途中の聖句解読に多くのエネルギーを割いてきている。
その解読は、読者がいままで聞いたことのないであろう解読だ。
ここまでくると、読者は途方に暮れた気持ちになるのではないだろうか。
こういう話に、読むものは一体どう対処したらいいのだ。そもそも、この解読は究極に正しい理屈、すなわち、真理になっているのか?~と。
そういう疑問はこれまでもあったろうが、前回あたりまで来るとピークに達したのではないだろうか。
<人間は究極の真理には到達できない>
そこで筆者は先に答えておこう。
「この解読は真理か」への筆者の答えを結論から述べよう。
「真理ではない」~と。
筆者だけではない。誰の解釈も真理ではない
また、聖書解読だけではない。
一般にすべての知識に於いて、人間がその知性・霊性を尽くしても、その短い生涯の内に究極の真理に到達することはできない。
(科学はすでにその悟りに達している。だからその発見をみな仮説~仮に設定した理論~というのだ)
<体験で悟るのみ>
だがそれを論理的に証明することは出来ない。
真理に到達していないものが、それに到達できないなどと、どうやって証明できようか。
人間が出来る唯一は、そういう体験を通して体得することだけだ。そしてその体験をさせてくれる材料は、筆者の知るところでは聖書のみである。
聖書は教材でもあるのだ。
この書物の解読を通して、そこにあるであろう究極の解読(真理)を目指して解読を続ける。すると「これだ!」思っても、時がたつとまた別の筋道が見えてくる。
この体験を続けると、人は「人間は究極の真理には到達できないのではないか、少なくともその生涯の内には」と実感する。こういう体験を通して得る悟りが、「人は真理に到達できない」ことの根拠らしきものとなる。
<極限の広さ、長さ、深さを持った世界観>
おそらく聖書はその悟りを得るための最適な教材である。そこに述べられている世界が、空間的広さ、時間的広がりにおいて、比類なきものを持っているからだろう。どちらも無限大の広がりを持っているのだ。
また、そこに登場する存在も、目に見えるもの(物質)に加えて「見えないもの(霊)」によってもなっている。
いわば認識対象が重層構造になっている。
そういう世界に登場する諸要素が、みな、繋がりを持っている。
さらに、それらの手がかりになるべき論述に、比喩表現が多い。
人間はそのすべてを100年足らずの生涯の内に見通すことは出来ない。実際にはその時々に、その部分部分での繋がりをみるだけである。そして、その繋がりも、より広大な視野からみると、また別の繋がり方を見せてくるのだ。
だから人間は、その書物の解読努力を通して、人間の解読力の限界を知ることができるのだ。生涯では究極の解読(真理)至れないことを体得できる。筆者はこういう書物を与えられていることを、幸いとすべきと思っている。
<初代教会は体得していた>
この悟りに達していた最初の人々は、初代教会のメンバーたちだった。
この教会では、指導者である使徒たち自身が、自分の解読は不十分だと悟りきっていた。「(ピリポよ)まだわかっていないのか」といったような指摘を、世を去る直前のイエスに連発されていたのだから。究極の解読に達しているなどと思ってる弟子は、ひとりもいなかった。
その状態で彼らは指導者になって教会員を指導していったのだ。だから初代教会全体が「自分たちの解読は真理以前のもの」という認識を基礎に持っていたのだ。
<だから自由解釈させた>
だから、弟子たちは、新参者たちに小グループを造らせ、そこで自由に聖句吟味をさせえたのだ。
もちろん、彼らが正しいとして共有している解読文もある。イエスに関する聖書(旧訳聖書)預言などはそうだった。だが、少し細部に入ったらもう、弟子たちの誰かが「これが究極の解読だ」ということはなかった。
その結果、個人の聖句解釈自由を当然の前提として、教会活動はなされていった。
そういう状態が100年間余り続いた。それでもって初代教会は、爆発的な成長をした。
<活動原理の大転換>
以後のキリスト教活動を鳥瞰してみる。
カトリック教団がまず、この活動原理をぶち壊している。
彼らは教団の指導層僧侶が至った結論を公会議で承認すると、それを究極の真理解読だとした。それを信徒に通達して教会を運営した。
この生き方を教理統一主義という。
一つの教理(解釈体系)を真理とし、それでもって教会活動を統一する主義、という意味だ。
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彼らは、統一教理に沿わない解読はことごとく異端として罰した。
中世には、異端審問裁判所まで造って、容疑者を裁判にかけ、多くを火刑に処した。
地動説を基盤にした世界観を述べたガリレオも、これにかけられ有罪とされた。
彼は火あぶりにはされなかったが、以後の生涯を、一家屋の中での軟禁状態で送っている。
<プロテスタントも教理主義>
ルター、カルバンの「宗教改革」で始まった、いわゆる「プロテスタント」教会も、教理統一方式の教会だ。
彼らはカトリック教会の教皇(法王)という存在など聖書に記されてないと、従来のカトリックを批判し、教皇抜きの新教会を開始した。
だが「究極の聖書解読(真理)を人間は出来ない」という悟りには至れなかった。
プロテスタント教会もカトリックと同じ教理統一方式のままで活動してきている。
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このプロテスタント教会から、色んな分派教団が出てきている。だからそれらも当然みな教理統一方式の教会となる。これとカトリック教会を加えた勢力は、現在世界では文句なしの多数派となっている。
世界のキリスト教活動の大半は教理統一方式によるものと、現代の人類世界はなっているのだから、世界でクリスチャンと称されている人々も、ほとんどが「究極の真理に人間は至れる」と~漠然と~思っている人間という現状だ。
そしてキリスト教界は世界最大の宗教勢力となっていて、その認識観は人類一般の気風をも左右している。
その結果、現在人類の大半は「誰か偉い人たちが真理を知っている」という気分で生きているのだ。
<初代教会直系の人々>
そのなかで、「人間は究極の真理には至れない」という悟りをベースにしている教団は、使徒行伝時代の初代教会直系の教会だけだ。
これが聖句主義、バイブリシズムベースの教会で、現在のその代表がバプテスト教団とメノナイト教団だ。
前者は米国南部のサザンバプテスト地域を本拠地としている。
彼らはカトリック、プロテスタントの両教会からの、迫害を受けながら存続してきた。
とくにバプテスト自由吟味者へのカトリック教会からの1,200年にわたる苛烈な迫害は、筆舌に尽くしがたいものがある。
後者、メノナイト教会は米国北西部のカナダと国境を接する諸州を本拠地としている。
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そういうわけだから、そもそもこうしたキリスト教活動鳥瞰図を心に描けている人間が非常に少ない。その歴史と鳥瞰図を筆者鹿嶋は『バプテスト自由吟味者』で、本邦で初めて具体的に明かした。
だがこれは小さな文字通りの小冊子だ。日本人一般がこの冊子で示した事実を悟るには、あと、50年くらいかかるだろうと思いつつ、鹿嶋はこれを出版した。
<サザンバプテスト地区に暮らして>
冊子が示唆している事実は、驚く程に悟りにくいのだ。
筆者自身も、日本にいてこの事柄を文字で読んでも、なかなかわからなかった。
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この方式をサザンではバイブリシズム(聖句主義と筆者は訳した)といっている。筆者はこの地域に1年間住んで、聖句自由吟味主義で活動している教会に参加させてもらった。
日曜日に夕拝もしている教会があって、三つの教会に掛け持ちで出入りさせてもらった。
スモールグループにも加わり、礼拝後の交わりもともに楽しんだ。それを通して、聖句自由吟味活動が彼らをいかに自由にし、活き活きさせているか、も観察できた。
こうした体験を積み重ねないと、バイブリシズム教会の全体像、全体的雰囲気はなかなかキャッチできない。
<バイブリシズムの真理観>
筆者は折を見て、メンバーに尋ねてみた~。
「あなた方は聖書に世界の真理はあると言っている。それでいて、全員に共通した究極の真理は人間にはえられない、としてやっている。絶対と確信する真理なしで、確信ある生活、確信ある人生をどうやって送るのだ?」と。
彼らは応えた~。
「この書物にある究極的な真理そのものには人は至れない。だが、聖句を個々人が吟味し解読したものが、当人にとっての(その時点での)真理だ」
筆者はさらに問うた~。
「そんな相対的なものは真理とはいえない、という批判にはどう応えるのか?」
彼らは言った~。
「有限な人生を日々生きる人間個々人にとって、それ以上に頼れる知識が他にあるとは思えない。実はみな~バイブリシストでなくても~漠然ながらそうやって生きている。われわれはそれを漠然とでなく、聖句を吟味しながら考え、日々の解読をベースに生きているだけのことだ」
<ウイリアムジェイムズの真理観>
余談だが、それを聞いたとき筆者の目の前に立ちはだかっていた「ウイリアムジェイムズの知識観」に対するベールがパラリと落ちた。
筆者の本業はマーケティングと言われる分野で、当時そこではCI(コーポレートアイデンティティ)が研究課題の一つとなっていた。筆者はその最高の手がかり事例として「アメリカ国家のアイデンティティ構造」に焦点を定めた。
それにはウイリアムジェイムズのプラグマティズム認識論がベースとして存在しているだろうことは、他の識者も指摘していたが、その内容が不明だった。
情報を集める内に、サザンバプテストのキリスト教活動がその有力手がかりとして浮上してきた。そこでそれを明かすことを本業上のゴールとしての、米国南部での研究滞在であった。
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そして教会員の上記の言葉を聞いた時、ジェイムズのプラグマティズム哲学の種はこれだったと合点できた。ジェイムズはそのタネを見せないままで認識哲学を述べていた。だからわからなかったということが、わかったのだ。
<自由人か恐怖の奴隷か>
はなしをもどす。
「人間はその短い生涯の内には、究極の真理には到達できない」こと、それを悟っているかどうかは、人の生涯を大きく分ける。
なによりもまず、人が(精神的)自由人になるか、あるいは恐怖の奴隷になるかが、これでもって分かれる。
「人間が究極の知識に至れるのでは・・・」という期待は、それが漠然としたものであっても、恐怖をもたらす。
「真理に至っている賢人の知識」に自分の知識とは合ってないのではないか、という恐れだ。
この思いが、一般人の心理に常時伴う。
聖書解釈においてもそうだ。
自分の解釈は間違いではないか・・、その不安がもたらす恐怖である。
事実は正解に至っている人などいない。なのに、「自分の聖書解釈はそれに至っていないのでは」という思いが生まれる。そしてその思いは常時、「見えない幽霊」となって人間の心に恐怖を生み続けるのだ。
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日本では、クリスチャンといえども、その大半が、恐怖を抱きながら活動している。
恐れは人の精神を萎縮させ、本来与えられている資質の発露を妨害する。
これは民族の行く末を左右する、重大な病なので、次回にもう少し論及しよう。