鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

18.イエスの言葉群の中核は「御国」についての教え

2018年11月07日 | 鬱を打破する聖書の論理

前回、臨時で「信じる」の意識波動的な意味を考えた。
「イエスの意識波動体の中に住まう」という考えが出てきたついでに~先のために~考察した。寄り道したが大丈夫、ゴールは「鬱心理を打破する聖書の論理と力」においている。これを焦点としての遠望は保っている。
後のための先取り的な仕事だった。本論に戻って、イエスの夢の言葉の解読を続けよう。

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今回は~、
 
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「(Ⅰ)「諸君がわたしの言葉に留まり、(II)わたしの言葉が諸君の内に留まるなら、(III)求めるものはすべて与えられます」
(ヨハネによる福音書、15章7節)
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~のうちの「わたしの言葉」だ。

前々回に、(Ⅰ)「諸君がわたしの言葉に留まり」の内の「留まる」の意味を解読した。
それは、イエスの言葉が形成する意識波動体のなかに、自分の意識波動体が「住まう」ことであった。
 
だが、その住まうお家である「イエスの言葉」が具体的に何であるかのイメージがないと、聖句の意味は明確化しない。
今回はそれを解読する。
 
 
 
<言葉は「言葉群」>
 
それにつけ、ここでまず上記の夢の聖句の邦訳文に、若干修正を加える。
筆者が踏まえる英文聖書は、New American Standard Bibleだ。
これは米国内で、最もギリシャ語の原文に即していて、かつ、英文が平明と定評あるベストセラー聖書だ。
 
この聖書を見ると、上記邦訳文の「言葉」は“words”と複数になっている。このニュアンスをも含めて日本語にするとこの語は「言葉群」とでもいうべきだろう。人間(諸君)が超自然事象を得るために住まうべく家は、より正確には「イエスの言葉群」だった。

 
  
 
<言葉群の中核は「天国についての教え」>
 
けれども、ではその「(イエスの)言葉群」とは何か?といわれると、少々困る。
イエスは沢山の言葉を述べている。そのすべてをいきなり相手にしたら収拾が付かなくなる。
やはりまず、中核になる言葉から吟味していくべきだ。
そしてそれは「天国(の性質を持った空間)に関する教え」である。世にイエスの教えの中心は福音(よき知らせ)というが、そのよき知らせは具体的には「天国(という空間)に関する知らせ」なのだ。

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そのことは、四福音書の最初の書物「マタイによる福音書」に如実に現れている。ここでイエスは「天の御国が近づいた」と宣言して教えを始めている。以後、その天国の説明を中心に、イエスの説教は延々と展開していく。
いわゆる「山上の垂訓」と呼ばれるようになっている説教も、みな「天の御国」に関する教えだ。
 
だから、マタイ伝では~特に前半に~「天国」の語が繰り返し繰り返し出てくる。もういやというほど、数えたことはないが20回は優に超えているだろう。
このようにしてイエスは天の御国の特性をまず集中的に説明する。
中核は天国に関する教えなのだ。


 
<天国空間が来たら「こうなる」ぞ>
 
そして、その説教のなかでも特にイエスが「天国が来たらこうなる」とズバリ述べた言葉がある。これが中核中の中核だろう。まず吟味すべきは、その言葉だ。
具体的にはそれは、後に人々が「主の祈り(the Lord's Prayer)」とのニックネームをつけた聖句だ。そしてこれが結構くせ者なのだ。だが避けて通れない。
なにはともあれ、この一般的訳文を口語文で示そう。
 
 
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天にまします我らの父よ。
御名があがめられますように。
御国を来たらせてください。
 
御心の天になるように、地にもなさせてください。
私たちに日常の糧を与えてください。
我々に罪を犯すものを我らが許すように、我らの罪をも許してください。
 
我らを試みに会わせず、悪より救い出してください。
天国と力と栄光はとこしえにあなた様のものだからです。
 
(マタイによる福音書、6章9-13節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
 
 
 
これは文字通りに見ると、「お願い」の祈りだ。なのに筆者はいまさっき、これが「天国(の性質を持った空間)が来たらこうなる」と示す言葉、宣言する言葉といった。どうしてそんなこと筆者は言うのか。これについては、若干込み入った解読を示さねばならない。

 
<「主の祈り」の名は付けすぎ>
 
筆者は考える。まずこの聖句につけられたニックネームは放念すべきだ、と。
この「主の祈り」という呼称は、語呂がいいからそう付けたのだろうが、いわゆる「付けすぎ」だ。それはほとんど間違いと言える程に不適切で、妥当な解釈の阻害要因になっている。
これをみたら当初ほとんどの人は、主(イエス)が父なる創造神に祈った言葉と予感するだろう。だが、中身は全然違うのだ。
 
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これは「諸君の祈りはこうすべきだよ」と「人々にイエスが教えた祈り方」なのだ。これを教える時の状況はこうなっている~。
 
人々は「自分たちは創造神にどう祈ったらいいか」とイエスに尋ねている。
対してイエスは~
 「長々と祈るな。全知の創造神は、諸君が求めていることなど、すべてわかっている。ただ、短くこう祈れ」といって教えている。
そういう、人間に、いってみれば「お前ら、祈るんならこう祈れ」といって発した言葉なのだ。
ゆえにまずそれを知って、誤解を誘うネーミングを放念すべきである。
 
 
 
<お前ら祈るんならこう祈れ>

第二にこれも知らねばならない。
 
上記邦訳文の一つ一つのフレーズの各々は、文字の上では父なる創造神に祈り求めている「願いのことば」になっている。
 
だが、イエスがここで究極的に教えようとしている真意はそうではない。
「天にまします我らの父よ、御国を来たらせたまえ」につづくフレーズの真意は、祈念ではなく宣言だ。
天国の空間(空気、オーラといってもいい)がやってきたら、それは地上の現実に覆い重なって、御国の性質が実現されていく、という宣言なのだ。
 
それを明示するために、まずとにかくそのように訳文を変えてみよう。
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天にまします我らの父よ。
御名があがめられますように。
御国を来たらせてください。
 
(御国の空間が来れば)
~御心が天になっているように、地にも実現します。
~①私たちに日常の糧が与えられます。
~②我らの罪は許され、我らも私たちに罪を犯すものを許せるようになります。
~③我らは試みに会わせられることはなく、すでに悪に誘い込まれているものは悪魔より救い出されます。
 
天の王国とその力と栄光(パワーも含めた天国空間の波動)は、とこしえにあなた様のものだからそうなるのです。
 
(マタイによる福音書、6章9-13節の真意)
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 ~後の議論がわかりやすくなるために、筆者が①②③と番号を打っている~ 
 
イエスが教えようとした究極的な内容はこれだ。
 
だが、これを語った時点ではまだそれをそのままいうことはできなかった。
イエスがいわゆる「山上の垂訓」でこの「祈り方」を教えたのは、イエスが宣教を開始したばかりの出発時点で、ほとんど第一講なのだ。

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この後、イエスは十字架死して罪の代償を作り、復活して天に昇って、聖霊を送る。その聖霊が「天国の力」を超自然的事象でもって証拠する。
 
だがこの説教の時点でイエスは、自分が十字架死して人間の罪の代償を作るという予告もしていない。そういうタイミングで、究極の真意を言っても聴衆は理解できない。
そこで「祈り方」の全フレーズを「お願い」の言葉としてまずは飲み込みやすく教えたのだ。

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鹿嶋の深読みとの嘲笑があっても筆者はそう解読する。
「祈り方」の奥義は「天国はこういうところ」という教えであり宣言だと解読する。
 
次回には、その宣言の内容をさらに具体的に追ってみよう。







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