鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

26.(臨時版2)養育係の下から成人の扱いに

2018年11月28日 | 鬱を打破する聖書の論理

 

 

聖書の世界観の中にも、教えが絶対の真理として与えられる時期がある。旧約聖書の時代がそれだ。
 
この時代、人々はモーセを通してエホバ神から「律法」を与えられた。それを代表的に示すのが「十戒」だ。
 
ちなみに、律法は言葉で書かれている。
ことばは概念で出来ている。概念は思考の枠組(外枠)を与える。
たとえば「石」という概念は「土が固まって出来た固くつぶつぶの物体」という外枠であるが如しだ。

だがこの枠組(概念)に入る実在は多種多様である。ちいさなもの、大きなもの、丸いもの、いびつなもの、白いもの、黒いもの、色々ある。
言葉が示すその内のどれかを、見定めようとする作業が解釈だ。
解釈されてできる論理体系が教理だ。
解釈は様々になされるので、教理も様々となる。
 
律法も言葉で書かれているからそういう解釈仕事はあるが、旧約時代にはそれは律法学者という「賢人」の仕事だった。
一般人は彼らの結論を絶対の真理として受け入れ、従う・・・それが旧約時代だった。
 
+++
 
人間が成長していくには、そういう時期も必要なのだろう。
個人でみても、われわれが幼い子どもに規律(ディシプリン:discipline)を教える際、それを絶対の真理として教える。
こうして幼子はまず世の中には秩序(order)があることを学ぶ。
 
 
<イエス意識革命を起こす>
 
だが、新約聖書の時代は異なってくる。イエスが「人の子」として現れて、聖句(律法)にあっと驚く解釈を示したのだ。
きわめつけはこれだろう。
 
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「(旧約)聖書はわたし(イエス)のことを述べたものなのだ」
(ヨハネによる福音書、5章39節)
・・・・・・・・・・・

 
聞いていたユダヤ教の高僧もビックリ。
だがイエスはそれを口で言っただけでない。超自然事象をもそれに伴わせた。いわゆる奇跡だ。
奇跡は人々の心に「それを起こす方は預言者(超霊能者)であるに違いない」との思いももたらす。
これをみた人々の多くがイエスの言葉を信じた。
 
 
 
<弟子の解読にも超自然事象が>
 
とはいえ、イエスは特別なスーパースターだった。だからその権能が及ぶ範囲のイメージは限られていた。
ところがイエスが十字架死して復活し、天に昇っていなくなってから、弟子(使徒)たちにもその不思議が現れた。
それをみて心を開かれた人々に、使徒ペテロたちは旧約聖書の新解釈をかませた。
 
参集者は一般の人間にもそうした新解読と奇跡が可能なことに驚いた。目からうろことなった彼らはさらなる新解釈を求めて使徒たちのもとにとどまり、初代教会が一気に出来た。
この奇跡が起きた初日だけでも、参集者は3千人を数えたという。
 
 
 <スモールグループで自由吟味>
 
使徒たちは参集者を数人毎の小グループに分けて、各々に自由吟味活動をさせた。
メンバー相互が同意共有できる解釈も次々に現れた。
教会の一体性も、自発的に出来ていった。
 
こうして初代教会の活動方式が成立した。
この方式は聖書を読む人々を、成人した、自由精神を持った大人として扱うものだった。
 
 
 
<「旧約時代の律法は養育係」とパウロ>
 
これと同様な観点から、パウロは「旧約時代の律法は養育係だった」といっている。
 
 
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「フェイス(御子イエスと考えていい)が現れる以前には、わたしたちは律法の監督下に置かれ閉じ込められていました・・・・(中略)・・・律法は私たちをキリストへと導くための養育係となりました・・・しかしフェイスが現れた以上、わたしたちはもはや養育係の下にはいません」
(ガラテヤ人への手紙、3章24-5節)
・・・・・・・・・・・・・・
 
 
これはすなわち、人間が幼児期を卒業して、言葉を自由解釈する、精神的な自由人になる道が開かれたことでもあるのだ。

今回はここまでにしよう。


(完)





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