こんにちわ。
クリスチャンの方には聖日ですね。
今回は、少し理屈っぽくなります。
前回までに「神語」「いのちの書」など、人間にはわからない項目が聖書にある、ということを見てきました。
これらをフォローしてきてくださって、とまどいを感じてしまわれた方もおられると思います。
のみならず~
「聖書には結局人間には解らんところがある」という事実に直面して、聖句探究の意欲を失ってしまう方も少なくないでしょう。
そこには、日本の精神土壌、ひいては福音の土壌とでもいうべき、深く大きな問題が横たわっています。
<宗教教典に関する通念>
その一つは、われわれ日本人が宗教教典に関して抱いている通念です。
一般の宗教教典を筆者はそんなに多く読んでるわけではないのですが、読んだ限りでは、一般の経典は、「これが正しい教えだ」と明確に教えています。
哲学書や倫理書のようで、内容のあいまいなところはほとんどありません。
教典とはそういうものだという通念がわれわれにはあります。
だから、「聖書には結局解らんところがある」といわれると、もう、「そんな本なら・・・」とやる気がなくなりがちになるのです。
<聖書への信頼心は維持する行き方>
だが、キリスト教活動には、不明な点があると認めながらも、教典(聖書)に対する「信頼心」を心に保ち続けて吟味を続けるという行き方もあります。
それはバイブリシズム(聖句主義)というやりかたです。
これはわれわれ日本人が一般の「宗教」なるものに抱く予想よりも、はるかに深い認識論を持っています。
これについて述べてみましょう。
すこし理屈っぽくなりますが、大切なところですのでやってみます。
<「真理がある」という信頼>
この方式は、「これぞ絶対的に正統という聖句解釈は、人間の短い生涯においては得られない」という考えの上に立っています。
そのうえで、「でもこの書物の中には真理(不変の知識)が最大に含まれている」という信頼を抱きます。
この信頼が、聖句にあれこれ解釈を巡らしていく意欲を維持するのです。
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それが実際に起きている様を確かめるために、鹿嶋は米国サザンバプテスト地域に丸一年間、滞在しました。
そこでは、数人のスモールグループでの相互吟味を生かしつつ、この方式を続行していました。
複数の教会にその参加を許されて、鹿嶋はみずから、相互自由吟味活動を実体験もしました。
<聖句自由探求者への質問>
これに併行して鹿嶋は、聖句主義に立つ教会の執事(信徒の代表者)や教職者に面談調査しました。
彼らバイブリシストは一様に、個々人に「聖書解釈の自由(Freedom of Bible Interpretation)」を認めます。
さすれば解釈は個々人によって分かれるのですが、それでよしとします。
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すると外部者から「諸君は究極的な唯一の真理は認めないのか?」という疑問が当然の如くに投げかけられます。
同じ質問をしてみた筆者に、彼らは一様に応えました~。
「それが存在することは否定しないが、そうしたものが人間個々人の短い生涯で見出されることはありそうにない」~と。
<真理は動態的なもの>
ついでこんな外部者的質問もしてみました。
「では、真理なしでやるのか」~と。
彼らは~
「膨大な内容を持つ聖句に対し、個々人が吟味を試み解読したものが、その人にとっての(その時点での)真理だ」
~と応じました。
つまり彼らには「真理は一つ」ではなく、「個々人が各々持つもの」だったのです!
また同時にそれは、個々人の中で成長する「動態的」なものでもあったのです!
<教理統一方式と比較すると>
これをカトリックやプロテスタントなど、教理統一方式をとる教会と比べると、その特徴がよくわかります。
これらの教会にとっては、真理は不変でただ一つで「静態的」なものです。
(そういう信念で示しているのが「教団教理」です)
そこで鹿嶋は教理統一方式の観点からの質問も投げかけてみました~。
「そんな相対的なものは真理と言えないのでは?」という(批判含みの)質問をした。
すると彼ら聖句自由吟味主義者は、こう答えました~。
「有限な人生を生きる、現実の人間個々人にとって、それ以上に確信して頼れる真の知識(真理)が他にあるとは思えない」~と。
<「プラグマティズム」の真理観は聖句主義思想の援用>
このバイブリシズムの真理観を、ほとんどそのまま援用して、有名な「プラグマティズム」哲学を構築した人が、米国の哲学者、ウイリアム・ジェイムズです。
彼は学問屋さんですから、このあたりの用語をきちんと定義しながら話を進めています。
彼は真理(truth)といわないで、「真の観念(true ideas)」と言い換えてこう言っています~。
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「真の観念とは、われわれが同化(assimilate)し、効力あらしめ(validate)、確認し検証する(corraborate and berify)ことのできる観念である。
偽なる観念とは、そうでない観念である。・・・(中略)・・・そしてこれが真理の意味である。」
(『プラグマティズム』、ウイリアム・ジェイムズ著、桝田圭三郎訳、岩波文庫、1957、p.147..)
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~ジェイムズの認識哲学は、米国のその後の知的文化を方向付け、今日に至っています。
<沼に咲いた一輪の蓮花>
ハーバード大学というのは、神学校から始まっています。
それはピューリタンの教理統一思想一色だったボストンの街のただ中に成立していた、バイブリシズム活動の牙城でした。
いってみれば、教理統一思想の沼に咲いた一輪の蓮の花(聖句主義の)のような性格の学校でした。
ジェイムズの認識哲学はその土壌のうえに咲いた学問知識の花といっても過言ではない。
端的に言えば、ジェイムズは、その土壌から醸し出される思考の雰囲気を、本能的に吸収し、自己の認識哲学にチャッカリ援用したと言う観があります。
<味わい深い認識哲学>
だが、その土壌を形成している聖句主義は、さらに深い基盤を持っています。
聖句を最終権威とし、それとの照応をしながらグループ吟味もすすめるという実践活動などがそれです。
余談ですが、実はそれは、米国という国家の性格の根底を決めているのです。
これについては、また詳論したいのですが、とにかくバイブリシズムはそれほどに含蓄深い認識活動です。
この活動が、人間の知性と霊感を育てる力には計り知れないものがあります。
これを、姿勢としてでもいいから身につけたら日本人は変わるでしょう。
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この詳細を日本人にお知らせする第一報が、先日出版した~
『バプテスト自由吟味者』フランク・S・ミード著、鹿嶋春平太訳・解説、編集工房DEP刊、株式会社かんぽう発売
~でした。
お読みになれば「目からうろこ」の連続となるでしょう。
アマゾンが扱ってくれています。
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