前回の続きです。
「黙示録」をみましょう。
まず、この聖句から~。
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「いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた」
(黙示録、20:15)
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<天国行きの人の名簿らしいが・・・>
~これなんか、普段聞いている「天国行き、地獄行き」の話が連想されて、わかったような気持ちにとてもなりやすい聖句ですね。
火の池は聖書の「地獄」ですから、ここにに投げ込まれるのは、「いのちの書」に名前が記されていない者」・・・というのは納得しやすい。
だけど、これも「いのちの書」の中身についてはなにも述べておりません。
<天の「都」に入れる人の名簿なの?>
~次の聖句もそうです。
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「しかし、すべての汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都には入れない。
小羊のいのちの書に名前の書いてある者だけが、入ることが出来る」
(黙示録、21:27)
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~このでの「都」は~鹿嶋の聖書解読では~天国(天の創造神王国)の中に出現する城壁都市エルサレムです。
それは天国の一部でして、それすなわち天国ではない。
そして通常は、天国に入れるか入れないかが「いのちの書」に名前が記されているかいないかで決まることになっています。
すると天国に入るのは「都」に入るための必要条件の位置にありますよね。
だからこの天国の代わりに「都」(天のエルサレム)をストレートに持ってくるのは、ちょっと「いのちの書」の効力範囲を限定しすぎている観もあります。
が、まあ。ここはそういう細かいことは抜きにして、ざっくり言っていると解することもできるかもしれない。
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だけど、これたも「いのちの書」の中身がわかりませんので、つまるところは断言は出来ませんよ。
もしかしたら、この書物には、さらに詳細に、天国に入れた人の中で都に入れる人の名を記しているところがあるかも知れませんしね。
「いのちの書」はわからんことだらけの神秘の書ですね、被造物である人間には。
<「記されている名」も消されることがある?!>
~さらにわからんことが出ていますよ「黙示録」には。
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「・・・わたしは、あなあたの行いを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。・・・・(中略)・・・しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。
彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。
勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。
そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない」
(黙示録、3:1-5)
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~鹿嶋の解読ですけど、ここで「生きている」というのは、「霊感が活き活きと働いている」という意味でしょう。
「実は死んでいる」というのは、「その霊感が枯れてしまっている」と解せられます。
福音は霊の次元の言葉ですからね。
人間は霊感が枯れたら、福音もこの「世」の話のように受け取ることになってしまいますからね。
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その「霊感が活きている」ものに着せられているのが「白い衣」というわけです。
そして、「この人の名はいのちの書から消されることはない」といっている。
ならば「霊感が枯れてしまった人の名」はいのちの書から消されることがある、となりませんか。
これは大変だ。
「いのちの書、には~
「イエスを創造神の子で救い主と信じたら、その人の名が記される」
~というだけではないことになる。
つまり、「これで決まり」となるわけではなく、その記されていた名は「消されることもある」という!
だったら「どの程度霊感が枯れたら」消されるんだ。
いったい「いのちの書」ってどうなっているんだ?
・・・だがそうした内容の論述はここでも一切ありません。
<世の初めから名が記された者?!>
~次の聖句はまた驚きですよ。
「いのちの書」に記されてない名前は「世の初めから記されていない」とも言っている!
だったら「いのちの書」に記された名前も「世の初めから記されている」ことになるでしょう。
聖句を見てみましょう~。
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「地に住む者で、ほるられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼(海から上ってきた獣)を拝むようになる」
(黙示録、13:8)
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ここで「海から上ってきた獣」とは悪魔(の化身)をいっていますが、とにかく彼を拝むようになるものは、「世の初めから」いのちの書に名前が記されていないもの、という。
そんなこと、創世前から決まっているというのなら、人間の自由意志の働きなんて、意味なくなるんじゃないの?
人間はロボットと同じか?
まるでカルバンの「予定説」じゃないの・・・。
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~ここだけじゃないよ。
次の聖句でも同じことをいっている。
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「あなたの見た獣は、昔いたが、今はいません。しかし、やがて底知れないところから上ってきます。
そして彼は、ついに滅びます。 地上に住む者で、世の初めからいのちの書に名を書きしるされていない者は、
その獣が、昔はいたが、今はおらず、やがて現れるのを見て驚きます」
(黙示録、17:8)
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「底知れないところから上ってくる」存在は悪魔です。
そのことは、それ以前の千年間、悪魔は「底知れないところ」に閉じ込められている~と言う聖句に対応しています。(「黙示録」20:1-3)
がともかく、ここでも「世の初めからいのちの書に名が書きしるされていない者」(「黙示録」、13:8)とある。
「世の初めから記されている名」って一体どういう名なんだ?!
<親が役所に登録した名ではない>
人間が通常「オレの名」と思ってる名前でないことは確かでしょう。
それは、この世で親が付けて役所に登録した名ですからね。
「世の初め」よりず~とあとに現れた名だ。
これが鹿嶋春平太とかルーク唐沢なんてなると、さらに後に当人が造った名だからね。
問題にもなりません。
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それとは違う名が創世の初めからあるのか。
「ある」とせねば筋が通らないよね。
たとえば創世前からすでに、後に創造されることになる人間用に、名のリストが「いのちの書」には、づら~と準備されている~というように。
「いのちの書」に名が書きしるされるべき人間には、その名が一つずつ、各人にその都度割り振られ与えられ、て記されるのか。
でもその名ってなんなんだ。
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ダビデやヨハネは「いのちの書」には「名が書かれている」というところまでは言っています。
それ以上何も言ってないと言うことは、その名は人間が読めない文字によって書かれている、と受け取るしかないよね。
だったら、彼らはそれが「名」であることをどうしてわかったんだ、という疑問は残りますけどね。
「いのちの書」はそういう「被造物にはわからない言葉」で記されていると考えるしか、我々人間には容認するすべがない書物です。
するとそれは、鹿嶋が述べてきた「神語(かみご)的な」言葉という思想に、つながるのではないでしょうかね。
であれば、鹿嶋の「神語仮説」は、突拍子もないどころか、聖書という書物に結構しっくりする仮説ではないか、と思う次第です。
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