鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

永続への確信がもららすもの

2004年12月11日 | 春平太チャペル
<今週の賛美歌>

「我に来たれ」
リバイバル聖歌、194番

クリックすると、曲が流れます。

<今週の説教>

 (聖句)
「御子(創主の)を信じるものは、永遠のいのちを持ちます」
           (ヨハネ伝、3章36節)



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 「クリスチャンになるといいことあるのか?」聞かれることがあります。
たくさんあります。

<世俗環境的なメリット>

 まずこの世での環境的な面からみてみましょう。
 外面的なメリットといってもいいでしょうが、いろいろあります。

 今や聖書文化圏は世界最大です。この圏の人口が世界の33%。ダントツです。二位はイスラム圏で、20%、三位がヒンズー教圏で13%です。仏教圏は6%で世界三大宗教と仏教が言われることから想像できるよりも、意外に少ないです。

 のみならずキリスト教圏の国家は、世界の指導的な位置を占めています。科学、芸術、政治、経済など様々な分野での世界的な指導者も、この文化圏の人が圧倒的に多いです。

 クリスチャンになるということは、イエスの教え(言葉)への信頼を抱いている人々のネットワークの仲間に加わると言うことです。信仰者は、教会や小グループを核にしたネットワークを形成しています。それが、その人のために行動し、助けをもたらしてくれるようになります。

 これがいかに強力で有り難いか、は欧米諸国に住んでみると如実にわかります。特に米国では、ある外国人がクリスチャンとわかると、姿勢ががらりと変わります。米国人は個人主義で冷たいという声がありますが、教会で交わりますと別世界です。山本周五郎描くところの、江戸の下町人情顔負けの親密さが体験できます。

 これが私生活、仕事の両面にわたって、いかに有り難いか。クリスチャン人口1%以下という特殊な国の民、日本人にはほとんど知られていませんが、もう、大変なものです。99%はそれを知らないから、「まあ、米国人は冷たいしこんなもの」と思っていますが、それは文字通り知らないだけです。

<精神的・霊的利点>

 けれども、環境的な利点というのは、当人の精神的、内的な変化とは別のものです。それらは、考えてみれば、お金持ちになってもかなりカバーできそうなものです。

 富をつかんで豊かな暮らしをし、人に振る舞っていれば、人はよってきます。進んで交わりを持ってくれ、助けてくれ、親切にもしてくれます。「世」とはそういうものです。

 だが、そういう金銭では、代行させられがたい利点も、クリスチャンになると出てきます。それは個人の意識の内部で起きる、精神的(霊的)利点と言っていいものです。

<死の奴隷>

 その第一は、自己が永続するという観念を持ち、かつそれに深いリアリティを感じられるようになる、ということです。これは、根底的な得点です。

 前回の説教で述べましたが、人は、自然なままですと、目に入ってくる物理的なものだけから、世界に関するイメージを描くようになっていきます。物理的なイメージの世界では、すべてが変化し、消滅していきます。そこで、「世界のものは全て無常だ」という存在感を抱くことになります。

 人間についても同じです。「人間死んでおしまい」という意識を年齢とともに蓄積していきます。そういう意識は、意外に早く、5歳くらいの幼児期に、すでに漠然と芽生えているようです。

 そういう存在観をいだいていますと、将来についてどんなビジョンを描いても、「けれども、どうせ死んだらおしまい」という意識が一方から働きかけてきます。それが将来のビジョンをくじきます。

 だから、人間、心の底から本気でビジョンを描くことが出来ません。いうなれば、将来のビジョンは一応描いては見ますけれども、実際には、へっぴり腰のビジョンにしかならない。それが人間心理の実情です。   

 この状態を、イエスは「死の奴隷」と教えています。正確には「罪の奴隷」ですが、聖書では「罪の報酬(結果として与えられるもの)は死」という公式があります。詳しくはここでは説明できませんが、結論的に言うと、「罪の奴隷」はすなわち、「死の奴隷」でもあります。

 具体的には何といっているか。「死」んでおしまい、という観念に鎖でつながれて、なにごとをも真の希望を持って出来ない、そういう人生しか送れない状態ですね。奴隷は鎖でつながれています。

 ところが、イエスは、永続する世界があると教えます。そして人間も、死んでおしまいではなく、その霊が永続する、と教える。

 クリスチャンになるとこのイメージが、徐々に強くなっていきます。前回の説教で述べましたように、このイメージのリアリティ観はバプテスマを受けるのを契機に、急に上昇し始めます。

<心底意識が一転する>

 従来、無常観しかなかった心の根底に、この永続意識が種のように出来、成長し始めますと、人の意識はガラリ一転します。心の仕組み変化します。

 春平太は、「キリスト教活動の歴史」のカテゴリーで、永続意識は、「純イメージ世界」の意識だと申しました。物理的存在が網膜に移って、それから出来るイメージ世界を「物理的イメージ世界」といいました。この後者とは違うイメージ世界という意味ですね。

 永続意識は、この「純イメージ世界」意識に属するものです。人はこれを通常「夢」といっていますね。現実の物的世界に裏付けられていない点をさして、夢というわけです。

 ところがこの夢がリアリティを持ってくる、そのリアリティ感がバプテスマを受けると、一段と上昇します。

 さらにこのリアリティ感は、たとえば、ディズニーランドのような、よくできた「純イメージ世界」に身を置くと、さらに一段と上昇します。そしていったん上昇するとその状態で、レベルが下がりません。

 そして、それが時とともに大きくなっていく。これがクリスチャンの意識の特徴です。

<未信頼者の心理構造>

 この特徴は、無常観だけが意識の底にある人と比べると、明確に浮かび上がってきます。無常感者は、物理的イメージ世界の意識、「人生いずれ終わる、死んでおしまい」という意識に、自己の潜在意識を蝕まれています。自覚はできませんが、そうなっているのです。

 ところが彼も、ディズニーランドのような、大がかりな純イメージ世界に身を置くと、物理的イメージ世界から一時的に解放されます。「死んでおしまい」を放念できる。忘れる。そういう形で一時的に、永続感を得て、永続への願望が満たされます。そして元気になります。

 だが、その永続意識は、楽園を出ると、また、希薄化を開始するのです。無常観に向かって低下していく。これが無常観者の心理状況です。アップダウンの繰り返し。

<対照は年齢とともに表面化>  

 両者の状況は内的、心理的なものです。だから、最初は外側からは同じように見えます。しかし、内部は今述べたように、対照的です。

 若い人については、外部者からはその差がわかりにくいものです。しかし、永続世界のイメージがある人には意識の根底に希望の火があります。永遠の希望の火。これが年齢とともに、大きくなってきます。すると、顔を見ただけでその明るさが感知できるようになるのです。

 対照的に、無常観だけの人には、根底のところに望みのなさの影があります。これも年齢とともに大きくなってきます。若いうちは、肉体に力があり、皮膚に張りがありますから表面に現れにくいです。

 しかし、歳とともに「死んでおしまい」の意識が効いてきます。老年になると、その影がとても大きくなります。心の底が死への不安と失望の影でしめられるようになります。それが身体の表面にも現れてきます。

<低意義感症候群>

 この対象を考えると、永続への確信の種をもつということが、いかに大きなことかがわかってきます。

 人間の内にある「どうせ死んでおしまい」という意識は、実に様々な症候をもたらしています。様々ですから症候群といってもいいです。

 その大きな一つは、自分の存在に対する「低意義感」とでも言うものです。
意義とは価値と言い換えてもいいですから、「低価値感」でもいいでしょう。

 これは、日本で日常いうところの、劣等感があるとか、自尊心が低いとかいう言葉が意味するところと、重なったところがあります。でも、よく考えてみると、劣等感というのは、まだある価値を認めている心理状態ですね。その価値を物差しにして計ると、自分は他人より劣等であるのではないか、という意識です。

 つまり、これあまだ、なにか価値のあるものを認めている、という状態ですよね。対して、春平太が「低意義感」とか「低価値感」というのは、もっと根底的です。ものごと全てに積極的な意義が感じられない状態なのです。

 そのものごとの内の一つが自分であり、自分の人生であります。だから、それには自己に対する「低意義感」も症状として含まれている訳です。自尊心の低さも、「自分という存在に積極的な意義・価値を感じられない」ということから生じる症状の一つですよね。これらの症状の源、ルーツは低価値感なのです。

 病をより正確につかむには、表に結果として表れた症状でなく、その原因をつかむべきですよね。その意味で、自尊心の弱さは低意義感・低価値観として捉えるべきものです。

<実体は「恐怖」の奴隷>

 人間は意識の根底のところでみんな、自己への低意義感に苦しめられてこの世を生きているのです。
「みんな死んでおしまいなんだなあ」という自覚が、「自分も詰まるところは存在意義はない」
という意識を派生しています。

 しかし、我々は、社会の中で、まあ、なんとか一時的な意義・価値を自分にくっつけています。詰まるところはこれは、自分をごまかしているわけですが、とにかく、そうしてなんとか生き甲斐を得ています。

 ですから、主観的な意識としては、無意義ではありません。低いものならある。だから「低い意義感」なんです。生きてる以上それくらいはあるわけです。

 しかし、低い意義感ですから、それはかろうじてのものです。存在が脆弱です。だから何かの拍子で針で刺されるようなことがあると、ぺしゃんこにしぼみます。そのとき、人は、やる気がまったくわかなくなります。すると生きる意欲がスコンと低下する。そうすると鬱になります。

 鬱は怖いです。この重苦しさゆえに、自ら命を絶つ人も沢山います。

 この世では人は程度の差こそあれ、みなこれを経験しています。すると、それを今実際に経験していなくても、その可能性におびえることになります。その恐怖が、自分の心に苦い感情、苦渋感を与えます。今鬱でなくとも、その恐怖に人はいつもおびえて生きています。

 人間は、この「死の恐怖に鎖でつながれた奴隷」ですね。
イエスが「死(罪)の奴隷」と教えた人間心理の実体は、その恐怖にあります。
「みんな死ぬんだ」「死んでおしまいなんだ」という意識がルーツですから、恐怖の方がいっそう根源を言ってるわけです。

<定年近い人の根底心理>

 会社で仕事ばりばりの現役者は、「そんなことない」、とか、「何を言ってるかさっぱりわからない」、とかいわれるかも知れません。

 だが、定年が近づくと、それを知ることになるでしょう。今やリストラが盛んですから、60歳になる以前に実質定年を迎えさせられる人もいる。これも含めまして、定年近い人間は、自己の低価値感にさいなまれていくことになります。

 近々いなくなる人になるのですからね。会社が依頼する仕事も軽いものになっていきます。
つまり、意義の低い業務ですね。その変化の度合いの大きいのが、社内での「窓際」への移転です。他の社員も、その人の存在意義を低く、低く見ていくでしょう。

 それをどうしても、当人は認識せざるを得ないわけです。で、その都度傷つく。それで、毎日が低意義感に傷つく日々となります。傷は、当人の意識の重点を会社での自分、会社での仕事におきつづけている人ほどる深く、痛みの大きいものになります。時に部下の一言が激痛となることもあります。

<いい会社の条件>

 いい企業では、こういう事態への対策が施してあります。


 たとえば、年金制度を充実させて、会社にしがみつかなくてもいいようにするとか。
OB会を充実させて、退役社員を尊敬し尊重するイベントなどを周期的に行う制度を持っているとか。こうして、「あなたは意義ある存在だと今でも会社は思っていますよ」とメッセージしてくれるわけです。

 会社がこれをすると、現役社員の精神も生き生きしています。命令されなければ動かなかった「指示待ち人間」も、状況を見て臨機応変に動くようになります。これによる連携効率の上昇と、それが会社にもたらす利益には、計り知れないものがあります。

 正反対のことをしている会社もあります。そういう対策、制度が全然ない。のみならず、退いていく人間に向かって、会社の将来への情熱を語らせたり、提案させしたり、汗水流して働いている姿をアリバイとして示させたりします。自分をなげうって最後まで働いている、というアリバイを演じさせるわけですね。

 権力が集中している会社、一族会社などによくみられます。権力者が「あなた次第では、もっと会社に留まってもらうことも、あるかも知れない」という脇の甘さを一方でちらりと見せる。すると、それが退職の恐怖と組み合わさって定年近い人を突き動かす。最後の一汁まで搾り出して働く。特に、会社人間は簡単にそうなるんですね。

 働きを通して「私は、会社にとって、こんなに意義ある存在です」と懸命に訴えさせるわけです。そうしている内に本人は、退職する日が刻々と近づいてくるし、「もっと留まって会社に貢献したい」という切望がエスカレートします。

 だが、その切望が表面に出たら、権力者は突き放します。元々、留める気なんてないんだから。そのとき、当人は夢見ていたイメージ世界の逆転の中で驚き苦しみます。夢の中でいつの間にか膨張していた自分の存在意義感が、突然針で刺されてシュゥーとしぼむのですから。

 断末魔ですね。最後に断末魔の修羅になる人もいます。
 残るのは、ボロボロになって、愛し続けた会社から退いていく自分と、権力者への恨みです。

 こういう悲劇に遭うのを避ける手だてはないか。一つだけあります。知識です。人間を一番根底から突き動かしているもの、それは「自己の低意義感」だ。それが様々な症候群のルーツなのだーーーこれを知ることです。知れば、危険を避けることが出来ます。

 そして、それは聖書の知恵を借りたときに、初めてわかります。それまでは人は、本当に、ものが見えていないのです。そして聖書が言うように、まさに「知識がないことが人を滅ぼし」ます。

<死後の救い、プラス、今の救い>

 人間は、自然なままですと、自己の「低意義感」の奴隷として、それに鎖で縛られ、さいなまれる人生を送るしかありません。それが様々な症候群を派生してこの世に悲劇を造っています。

 イエスはそのことに目を開かせました。のみならず、その奴隷状態から解放され、自由になる道をも残しました。その一面は、「自己の永続者としてのイメージに、リアリティ感を与える手だて」でもあります。

 イエスの教えを受け入れると、永続のイメージ世界が自己の意識の中に出現していきます。そして、バプテスマを受けると、意識の背後にあったそれが、前面に出てきます。そして、そのリアリティ感の上昇が始まります。これは真の解放です。

 これは画期的な意識革命です。30歳になってクリスチャンになった人がいるとします。この人の意識の根底には、それまで30年の間、「死んでおしまい」「詰まるところ存在意義はない」という感覚がじっくりと育ってきています。

 そのほかの諸事にも、その感覚が浸透してきています。その結果、「低意義感」が意識全般に浸透しているわけです。

 これが、30歳を契機に、逆転を開始します。以後、彼の内には、永続意識も出現し、そのリアリティが上昇し始めます。そのなかで、あらゆる存在と、その中の自分に関する「高意義感」が育っていきます。

 3年、5年、10年とたつにつれその感覚は上昇する。そして、従来、心の中で独占的な位置を占めていた無常観、「低意義感」を圧倒するようにそれはなっていきます。他の諸事に関する感覚も変えられていきます。その結果、当人の精神は、活性化の道をたどるのです。その中で、鬱も打破されていきます。

 イエスは、人間に、死後その霊が天の王国にはいることの出来る道を切り開き、示しました。いわゆる「救い」というのはそれです。英語のサルベーションですね。

 だが、それがイエスのプレゼントの全てではないのです。この世に肉体を持って生きている今においても、人間が根底的な苦渋から解放されて生きる道、鎖を断ち切る道をイエスは残しました。

 自己の低価値感の鎖から解放されて、究極の自由をうる。Free at Last ! そして精神が活性化した状態で十全に生きられる道、これをも残してくれたーーイエスは二重の「救い主」であるのです。
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2 コメント

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Unknown (御案内)
2004-12-11 19:54:39
初めまして、突然申し訳ありません。

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掲載費必要ですか? (鹿嶋春平太)
2004-12-18 02:51:50
お世話になります。

こういうの初めてですので、よくわかりませんが、掲載費が必要でなければ、登録して頂くのは、幸いに思います。

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