鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

19.「信仰」は「霊識」に

2019年08月14日 | 西洋を知る基督教再入門

 

前回、聖書の記述を物理学的にイメージさせてくれる新しい存在論~量子力学~を導入しました。

今回は、もう一つ、前もって吟味しておくべき重要事項を考えますね。

それは「信じる」という言葉です。
これは英語のビリーブ(believe)の邦訳語として、長いこと使われてきています。

前述しましたように、日本は「神イメージがほとんど宿物神のみ」できている国です。

で、宿物神イメージの中身はどうかというと、これは物質に触発された「神秘的な感情・感慨」のみです。
そこには神を説明する理屈、言葉がありません。
たしか、前の第6、7回あたりでそれを示しましたよね。

そしてこういう無論理な中身の神イメージに対しては、人間は、それを「全体として受け容れるか、受け容れないか」という姿勢しかとれません。
そこで、我が国のように「ほぼ宿物神イメージワールド」では、「信じる」という語は、「何も考えないで心に受け容れる」という意味にしかならないのです。


<イエスの「あとでわかる」>

だけど、これは聖書の邦訳語としては、致命的な欠陥を持っていますよ。

だって、聖書での神イメージの主役は「(万物の)創造神」でしょ。
この神概念は広大にして深遠な論理内容をもっていますよ。

これは聖書で「徐々に示されていく」神イメージであって、読者も聖句を手がかりに「思考・探究を続け、認識を深めていくべき」性格のものです。
それはイエスの言葉「(いまはわからなくても)あとでわかる」が代表的に示しています。

 

望「つまりbeliebeは日本語での「信じる」とは対極的な概念ということになるのでしょうか?」


~ですよね。だからこれを「信じる」と言っているのでは、もう最初から、聖書の世界観の探究を放棄しているようなもので、全然話しにならない。
これはもっと前に、対処しておかねばならない事柄だったのです。


 
<「ビリーフ」は「霊識する」>


望「そんなこといっても、この日本語は長いこと使われてきていて、もう、常識ですよ。最近出席した礼拝でも、牧師さん“信じる”とか“信じなさい!”とか叫んでましたし・・・。いったい、どうしたらいいのですか?」


~これはもう結論からお話したほうがいいでしょう。

鹿嶋は色々試行してきました。そして、現時点では「霊識する」がいいと結論しています。
「霊識」は文字通り「霊的に認識する」という意味を持っています。

イエスの「創造神は霊ですから・・・」とのみことば(聖句)が示しているとおり、その認識は「霊的」でなければなりません。

また、「識」は「認識する」の識で、これは「探究を続行している」というニュアンスも含んでいます。


望「存在を受け容れたら“もう考えてはいけない、あれこれ考えたらばちが当たる”というものではないのですね」


それは宿物神に対する姿勢です(笑)。


 
<ゴーイング・コンサーンで>

ただしここでちょっと難しいけれど、留意しておくべきことがあります。

この「霊識する」という認識活動は、通常言うところの~「客観的(科学的)認識」活動ではありません。

科学は基本的に「対象(創造神)と心理的に距離を置いて」なす活動ですが、「霊識する」は対象(創造神)の存在を基本的に心に受容した上で深めていく認識活動です。

敢えて言えば、「愛をもって」する探究活動です。


望「愛をもって・・・ですか?」


~そう。愛をもって受容しながら、同時に探究は続けているといいう認識状態です。

英語ではこの状態をゴーイング・コンサーンといっています。
日本では「活動態(かつどうたい)」と訳しています。

 
 
<「信仰」は「霊識」>

望「う~ん、飛躍した直感で申し訳ないのですが・・・、そうすると“信仰”なんてのも問題になりませんか? 先だっての礼拝でも、“信仰が足りない!”って牧師先生が信徒さんを叱っておられましたけど・・・」


~いや、飛躍じゃないよ。「信仰」は「信じる」と背中合わせの用語だ。

この語の英語は、ビリーフ(belief)とフェイス(faith)なのですが、この邦訳語も、「信仰」では全然ダメです。

だって「仰ぐ」というのは上方の高貴なる方を「考えないで拝する」というものでしょ。
「信じる」だけでも無思考状態なのに、さらに「仰いでいる」のでは、重ね重ね「識」がない。

信仰もまた宿物神の神イメージだけに適用されるものなのです。
やはりこれも「霊識」とするのがいいでしょう。

このシリーズでは、「信仰」を「霊識」に一貫して置き換えていきますよ。

慣れるまでは違和感があると思いますが、実践しなければなりません。
聖書の思想を対極から否定するような用語を使っていたんでは、「出発点から闇の中」ですからね。


望「基督教再入門だ、まさに・・・」


~茶化すんじゃないよ。


 
 
 
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疑いを持ち続けることこそが信仰 (SABIA)
2020-01-04 12:53:17
「信じる」とか「信仰」という用語を安易に連発するのは問題だということを、つくづく痛感しております。

日本語の「信じる」とは、イコール何も考えずにそのまま受け入れること、つまり知性を放棄する意味になってしまいがちです。そうなると、「不合理なるがゆえに我信ず」の開き直りしかなくなってしまう。

そして信仰を深めていくということは、どんどん神秘主義に向かうことになる。 もとより知性を放棄しているわけだから、信じない人に対して、知性でもってその内容を語ることなどはできない。 確かに、信仰がないとわからない世界があることは間違いないのだけれども、はなっから全く話が通じないことになってしまう。

また、信仰の指導者が、もしもおかしな方向に進んだとしても、疑いもせず従順についていくことが正しいとされることになる。

もちろん、信仰のありかたはさまざまなので、それが絶対に良くないということではないと思います。けれども、そのあり方しかないのだとしたら、知的に生きようとする人からは敬遠されるばかりでしょう。



幕末から明治時代にかけて西洋思想を紹介した西周さんが、若い頃オランダ留学直前に、次のような手紙を知合いに書いています。 現代の日本人も西洋キリスト教の信仰に対して、同じようなとらえ方をしていると思うのです。

「小生ちかごろ西洋の性理の学、また経済学などの一端を窺い候ところ、実に驚くべき公平正大の論にして、従来学ぶところの漢説とは頗る端を異にし候ところもこれあるやに相覚え申し候。もっともかの耶蘇教などは、今西洋一般の奉ずるところにこれあり候えども、毛の生えたる仏法にして卑陋の極み、取るべきことこれなしと相覚え申し候。ただヒロソヒの学にして性理の理を説くは程朱にも過ぎ公順自然の道に本き、経済の大本を建てたるはいわゆる王政にも勝り、・・・・」

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