鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

米国への無知を正す 7

2015年02月11日 | 米国への無知を正す





これまでみてきたように、カトリック教団というのは後発教団であり、世的な現実の必要に上手く対応していく、という性格も兼ね備えた人間集団だ。

キリスト教会の源流は、この教団ではなく初代教会であったことも、示してきた。

そしてこのカトリック教団が、4世紀末(392年)に、ローマ帝国の唯一国教の地位をえてしまう。
教科書に書かれている「国教になった」というのは、この教団なのだ。

なのに、教科書にも専門書にも、そして、世の識者と言われる人々の言葉にも、「キリスト教が国教になった」とある。
全くおかしい。

もうここから、人類のキリスト教理解は、迷路に入っていくのだが、どうしてそうなってしまったかは、これからの説明で徐々に自ずから明らかになっていくだろう。

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カトリックが帝国の国教の地位を得た一要因は、この教団組織のもつ体質がローマ政庁のそれに似た面を持つからである。
帝国政庁が自らの体質に合うが故に、国教とした面が多いのだ。
だが、それもおいおい示唆されていく。




<宗教の統一を望む>

カトリック教団が国教になるまでには、様々なドラマがある。
それ自体、政治事象として興味あるところだが、そのあたりは当面省略しよう。

とにかく、カトリック教会は帝国の唯一国教になった。

すると、教団は全ローマの人民を、自分のキリスト教方式に統一しようという意志を強く持つことになった。
この教団は教理主義方式で教会運営をするので、そもそもからして、信徒の聖書解釈を教団が正統とするひとつの解釈でもって統一してきた。

その体質が、国教になって、西ローマ帝国下の全人民に向かったのである。

まあ、新体制の発足で張り切ったことも含めて、これは人間の自然の情だろう。
カトリック教団は、いまや、国家の宗教庁の位置にあるから、法令を発布して人民に命令することが出来る。
ローマ帝国下の全ての教会に、カトリックの教理に従って活動することを求める気は自然に湧いてくるのだ。

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ところが、これに従わない教派があった。
初代教会以来、聖句主義方式で活動を行う教会がそれである。

彼らは教会員を教理で縛らず、個人の聖書解釈自由を大原則として、聖句探求をしてきている。
この大原則に、カトリック国教教団の要求は正面衝突するのだ。





<教理主義と聖句主義は水と油>


初代教会系統の聖句主義教会とカトリック教団とは、そもそも全てにおいて対極的だった。
それは根底的な相違なので、相容れるのは容易でないのだ。

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カトリックではプロの僧侶だけが聖句解釈を行い、幹部が検討あってこれが正統という教団教理を一つ決める。
これを信徒に与え信徒はこれに従う。
信徒が直接聖書を読むことも実質的に禁止だ。

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対して聖句主義教会では信徒全員がスモールグループで直接聖句を吟味しあう。
各々が自分の解釈を持ち寄って突き合わせ吟味する。
そういう活動は個々人の思考を自由にしていないことには成り立たないので、個人の聖句解釈自由は活動の大前提になり、これはゆずれないのだ。

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教団運営方式も対照的だった。
教理主義教会は職業僧侶が階層管理システムを形成し、一般信徒を統率する。

他方、聖句主義教会は聖書自由解釈を個人に認めた小グループの任意連携によって全体が動いていく。
それは相互理解と合意を積み重ねる民主主義の極のようなシステムである。

たとえ対等合併であっても、こういう二つが合併することは困難である。
なのに話は吸収合併だ。
カトリック教団自らは変化することなく、相手に同化してこいという。
不可能な話だった。




<カトリックランドを目指す>
 
ディズニーランドは、園内の全空間にウォルト・ディズニーのコンセプトが貫徹している。
カトリック教団も帝国のカトリックランド化をめざし、人民をすべてカトリック信徒にしようとした。
まあ、一般人民は従っただろう。
従えば政府が提供する公的便益を受けられるし、就業の機会を取り上げられることもなくなるからだ。

だが、聖句主義者は従わなかった。
しかも彼らの数は膨大だった。
なにせ、当初ローマ帝国全土に広がった教会はみな聖句主義教会だったのだから。
その状態が紀元後1世紀中は続いたので、彼らの集いは全欧州大陸にくまなく存在していた。




<幼児洗礼法を考案する>

カトリック教団は対策を打った。
まず416年に幼児洗礼法という法律を施行した。

幼児洗礼とは「子供が生まれたらすぐに洗礼をほどこす」行為である。

ちなみに洗礼とはバプテスマの邦訳語であって、聖書ではイエスの教えを信じた者を素早く水に沈めて浮かび上がらせる行為となっている。
これを浸礼という。

 カトリック教団はこれを滴礼(水を額に垂らす方式)に簡略化した。
生まれたての子供を水に沈めるわけにはいかないのだ。
そしてこの滴礼を幼児にさずけることを全人民に義務づけた。

幼児洗礼というのはよく出来たイデアである。
これをしておけば、赤子は将来みなカトリックのクリスチャンということになる。
彼らが大人になる頃には聖句主義者の大人も死んでいなくなるだろう。
かくして「イッツ・オートマチック」、宇多田ヒカルの歌のように、全人民が自動的にカトリック教会員になる仕掛けであった。





<洗礼をめぐる神学論争>


ところが聖句主義者はこの法律にも従わなかった。
自らの子に幼児洗礼を施すことを拒否し、西欧地域の至るところでカトリック教会との争いを起こした。

ここでバプテスマに関する両者の思想の違いを若干見ておこう。
このあたりを理解していかないと、以後の話が浮いてしまうからだ。

バプテスマはイエスの命令に従っておこなう行為である。
復活して現れたイエスは弟子たちにこう命じている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音(イエスの教え)を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は救われます」
(『マルコによる福音書』16章15~16節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・

ここで「救われます」というのは「人間の霊が将来天国(天にある創造主の王国)に入る資格を得る」という意味である。
聖書ではこれを「救い」を受けると表現する。

さて、この聖句でイエスが「信じてバプテスマを受けるものは」といっているように、聖書ではバプテスマは信じた者に授けるもの、となる。
そしてこの思想は信仰者洗礼(believer's Baptesma)という神学用語をも生んでいるくらいで、今日では聖句解釈の常識となっている。

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聖句主義者は「生まれたての赤ん坊に信じる、信じないの判断など出来ない」と、幼児洗礼法に従わなかった。
だが、カトリックは教理主義教会であって、教団の公会議で承認された教理(解釈)を、聖句より優先して用ることができる。

彼らは幼児洗礼を肯定する教理を作り出して、押していった。

ここでの両者の見解の対立点をみよう。
読者も、教養のために、この程度のことは知っておいていい。

わかりやすくするために、論争がなされたと想定して示してみよう。

・・・・・・・・・

聖句主義者「幼児洗礼は聖句に反する」
カトリック教団「いや、そうでもない。洗礼で救われるのはその行為に秘蹟(sacrament)が伴うからで、生まれたての幼児はこの神秘的な力によって救いが与えられるのだ」

~秘跡とは文字通りでは神秘なる痕跡である。
カトリックはこれを「霊によって起きる神秘な賜物」とした。
これがあるから幼児も洗礼で救われるとしたわけだ。


・・・・・・・・・

聖句主義者「そんなことで、赤ん坊には信じるという心理が働かない事実が、解消されるとは思えない」
カトリック教団「そうかもしれないけど、その点は、成人して堅信(confirmation)礼で補えばいい」

  ~堅信礼というのは「受洗した後に行う儀式」であって、これには信仰を強める秘跡がともなう、という教理を教団は造ったのである。

 カトリックは国家権力側だ。
こうして、ローマ帝国下の人民は、子供が生まれたらすぐに洗礼を施さねばならないとした。
この制度は西ローマ帝国滅亡後の欧州国家においても続行されていった。




<「逮捕・殺戮」の開始>

だが聖句主義者は「秘蹟や堅信礼などの神学理論(教理)は聖書に則らない詭弁」と解して断固拒否した。

そこで国教側は新たな対策を考案した。
「幼児洗礼法に従わない親は処刑」との法令を追加したのだ。
前の法律施行後、10年間のリードタイムをおいた426年のことであった。

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教団は国家の軍隊を用いて聖句主義者の居住地を襲わせ、とらえ、殺さえた。
聖句主義者はピレネーやアルプスの山々の谷間に、あるいはスイスの僻地にのがれて活動を続けた。
軍隊はそれを探索してまたとらえ、殺すを繰り返した。

記録にはないが、カトリックの本拠地、イタリー、フランスから遠い北欧の地にも多く逃れたであろう。

これが宗教改革までの1200年の長きにわたって延々と続いた。
(この事実は公式歴史記述のなかではすべて覆い隠されている)

聖句主義者にとっては、これは今流に言えば、全欧州がイスラム国になったような状態だったろう。





<異端審問裁判所>

その間、思想検査もエスカレートし、異端審問裁判所という機関までできた。
異端とは正統とする教理に沿わない理論という意味である。
カトリック教団は自らの教理に沿わないことを述べるものは、聖句主義者でなくても異端と判決して処刑した。
(ジャンヌダルクも、この制度で有罪宣告を受け火刑に処せられている)

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コペルニクスはそれを恐れて自らの地動説を二十年間隠した。
ガリレオは地動説を述べたかどで告発され自説を撤回させられ、以後軟禁生活のなかで生涯を終えた。

教団教理は天動説であり、それに反する理論は異端だったのである。




<「中世暗黒時代」の内実>
 
こういう社会体制では例外なく秘密警察が使われ、人民同士の密告も常にある。
人民は互いに疑心暗鬼になり「いつ何時、誰になんで告発されるかわからない」とおびえて暮らす毎日を送った。

これでは精神は萎縮し、知性も恐怖で萎えてしまう。
自発的な探究も発見も発明も出なくなる。
世に言う中世暗黒時代の実態は、こういう「精神の暗黒時代」だったのである。


その反面中世には、古代にあったような大きな戦争は起きなかった。
これをもってして中世を評価する向きもある。
だが平和にもいろいろある。
人民を恐怖の中において「心の平安を奪い、精神・知性の活力を衰えさせて実現する平和、単に戦争がないだけの平和」が幸福な平和と思う人は、現代では少ないだろう。





繰り返すが、聖句主義者のこの壮烈な歴史は、すべて(カトリック権力によって)封印されてきた。
その慣性が現代にまでも続いてきていて、事実は歴史の教科書にもまったく書かれない。

必然的に現代でも読者には、この話は全く馴染みのないものとなり、「直ちには信じられない」ものともなる。
読者諸氏はおそらく、少しフォローすると「疲れてしまう」ことになったのではないかと思う。
言いたくないけど、これを書く鹿嶋も通常より何倍も疲れる。



(続く)







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