前回までに、聖句自由吟味方式と徹底した知識の個人主義を説明した。
今回は、それを実現した初代教会は、イエス単独の作品であることを示そう。
<イエス、弟子の足を洗う>
イエスは「最後の晩餐」で弟子の足を洗うというドラマチックな演技をしている。
そして、「諸君が先生と呼ぶ私が、諸君の足を洗ったのだから、諸君も、互いに足を洗い合いなさい(奉仕しあいなさい)」といった。
この話は、通常、それっきりの出来事として、その後の出来事とのつながりが考察されていない。
だがそれは初代教会の成立と、密接につながっている。
<弟子たちは「教会開拓」していない>
復活後イエスは、弟子たちに「教会を創ること」を命じた。
だが、弟子たちは、今日いわゆる言うところの「開拓(教会開拓)」を一切していない。
最初の教会である初代教会は、よくみると、すべてイエスが創っている。
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「使徒行伝」2章に記録されたのは、その状態だ~。
「マルコの部屋」で聖霊が降臨し、120人の弟子たち異言を語った。
聖霊降臨の轟音に驚いてエルサレム神殿参拝者たちはマルコの部屋に飛び込んだ。
彼らは、ペテロの聖書解読に感銘し、そのような解読をしたいと、弟子たちの仲間に加わった。
新参加者は、その日だけでも三千人いた。
こうして始まった初代教会では、弟子たちは、教会開拓の努力を全くしていない。
<開拓は上下関係を生む>
なぜか?
開拓という仕事は、弟子が聖書解読を教え、イエスの教えを伝えることからはじまる。
すると、必然的に、先生と弟子の関係、上下関係が最初から形成される。
弟子たちは、自然に新教会員に君臨することになる。
イエスはそれを避けるために、自らの手で初代教会のすべてを開始させたのだ。
<自由吟味方式は歴史の産物だが>
以後も新参加者は続いた。
こうした人々の群れ(教会)を運営するには、新参加者を数人のスモールグループに分け、各々に自由吟味をさせるしかなかった。
聖句自由吟味方式は、弟子たちの知恵で制作されたものではなく、「これしかない」として始められた方式である。
この部分だけをみれば、歴史的偶然の産物でもある。
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だが、これはイエスが引き起こした出来事の一部だ。
イエスはなんと、十字架刑で殺され、復活する以前に、もう聖霊降臨を起こすことを決めていたのだ。
最後の晩餐の時に、もう決めていた。
だから、弟子の足を洗って見せた。
人が人に君臨しない信徒の群れを、自ら創始すると決めていて、弟子の足を洗った。
わざわざ、そういう演技をしてまでして、君臨を戒めた。
<教会思考停止機関化の構造>
驚くべきことだ。
こうして初代教会では、聖句自由吟味方式が創始されたのである。
後に、この方式はカトリック教団などによって、迫害され、歴史記録から抹殺されていく。
プロテスタントも、その亜流だから、右にならえをする。
(このあたりの詳細は、ミード著、鹿嶋訳・解説『バプテスト自由吟味者』に記されている)
そのプロテスタントの方式を、日本の教会は継承している。
だから、信徒の「思考停止」はごく自然に起きるのだ。
それが、この数回の記事で示した、「富田さんの提起された問題(教会での思考停止)の構造」である。
この問題への考察と対策は、これで終わりにしよう。
(完)
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