鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

<SG用再録1>Vol.15 『身体は言葉が変化したものだった(1章14節)』

2009年01月10日 | ヨハネ伝解読
http://promises.cool.ne.jp/I_have_a_Saviour_who_lightens_my_way.html

遠くハワイのISさんからアドバイスをいただき、ネットSG(スモールグループ)を
やってみようとなりました。
最初の試みとして、過去の[ヨハネ伝解読」の下記の記事に対し、ISさんがコメントをくださいました。

これから、自由参加者が増えて、グループが出来、みんなが横に繋がることが出来たら
本当に幸せに思います。

他の記事についても、思うところのある方からコメントいただけましたら
、<SG用再録2>として、新しく掲示していこうと思っています。
こうやって、グループが出来ていくのは夢ですね。
夢にどこまで近づけるか・・・。
やってみましょう!

(以下が再録部分です)

+++++++++++++++

 ヨハネの頭はグルグルと回ります。
そうだ、あの方の教えのエッセンスは、理屈としては簡単だったのだ。

 「わたしの言葉が諸君の内に留まるようにしなさい」

 これだった。
イエスの言葉が、自分の意識の内に、霊の内に留まっていること、それがゴールだったのだ!






 それをあの方は、

 「わたしの肉を食べ、血を飲まねば・・・」

 と言われたのだ。
これは喩えではない。喩えならこんな表現になるはずがない。
事実そのものを言っているのだ。

あの方の肉、血の実体は、言葉だったのだ!



 これが、ヨハネの内で最後まで残った疑問への解えでした。
そして、この解答が、ヨハネ神学の門を開きました。

ヨハネは大胆に書き始めました。
ペンを持つ指に不思議な力が加わりました。
その一文は1章14節の聖句だったと鹿嶋は確信しています。

                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「言葉(ロゴス)は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」
            (1章14節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    


  ヨハネによる福音書は、ここを起点にしています。
 ヨハネ神学の大半は、ヨハネ伝の第1章に凝縮しています。


                    



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26 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
肉と血と言の関係 (IS) (IS)
2009-01-10 11:32:18

ISです。
このチャーチをもう4年間も続けていらしゃったんですね。
これからもよろしくお願いします。

さて、じっくり読みたいなと思っていながら
なかなか実行できなかったヨハネ伝解読の降順に
アクセスしました。

教会で聖餐式を行うとき、肉を食べ、血を飲む
ということが理解できていませんでした。
比喩だということは分かるのですが、
パンを食べグレープジュースを飲むときに
すごい感動を覚えるということがないのです。

でも、先生の解説が大きなきっかけになりました。
イエス様が言であって、この肉と血は言だとすれば
食べるという行為が言(イエス様)を自分の中に
受け入れるということが理解できます。

パンとぶどう酒はそれぞれ独立しているように感じていましたが、
これはセットで捉えるべきなんですよね。
イエス様は食べるという行為をする度に
自分のことを思い出すように、と言われたのでしょうか。
私はそれでもいいな、と思いました。
返信する
サタン、恐るるに足らず! (IS)
2009-01-10 11:33:58


2009-01-10 09:02:54

前回コメントしてからいろいろ考えていました。
イエス様がことばであるということからいろいろなことに目が開かれるようで、とても興奮しています。

いろいろ書きたいことはあるのですが、混乱しないようになるべくコマめにコメントします。

以前から、目に見える世界と見えない世界があって、くっついてはいるけど別々に存在していると感じていました。
目に見える世界はこの世のことで、目に見えない世界は意識の世界になると思います。
サタンはこの世の支配者ですから、支配しているのは目に見える世界だけです。
ことばであるイエス様が王様である意識の世界にはサタンは手を出せません。
しかし、人間は基本的に肉体ですから、肉体を通じて意識が痛めつけられているわけですが。

イエス様の肉と血を食べることで、イエス様=ことばが私の肉体を支配することができるんだと思います。
(いろんな言い方ができると思いますが、とりあえず)
返信する
始まりました! (鹿嶋春平太)
2009-01-10 11:45:35
ISさんのコメントを皮切りに、スモールグループが
始まりました!

 これからどんどんいろんな方が参加してくださって、
文字通りのスモールグループになっていくといいですね。

ブログでは面と向かって行えるような
クイックレスポンスはできませんが、互いに遠くにいる発言者が繋がっていくことは出来ますよね。

みなさん、繋がりましょう!
思いついたことを自由に書いてください。
日本人のクリスチャンは少ないですけれど、横に繋がったら、
大きな力になっていきますよ!

返信する
incarnation (鹿嶋春平太)
2009-01-11 12:39:49
イエスはロゴス(言)が肉体化した存在、という
思想は、キリスト教神学では結構普及しているものの
ようです。

incarnation(受肉、肉化、肉体化)というのが、神学用語としてあるくらいですから。

+++

ただし、勉強して神学用語だけを知っているというのは、
要注意でもあります。
衒学的(学をひけらかす)になるだけという危険もあるんですね。

やはり、その論理内容を、他の聖句と連結させて理解するのがいい。
そうすると、知性も、霊も躍動します。
ISさんが、「興奮しています」と言われる状態とは、
ISさんの霊が喜んでいる状況なのかな・・・。
洗礼を受けると、霊がそういう風になるみたいです。
不思議ですね・・・。
返信する
血となり肉となる (sabia)
2009-01-11 13:38:03
春平太先生、今年もよろしくお願いします。
ただの思いつきですけど、コメントします。

「血となり肉となり」という表現は、普通によく使われますけど、まさか、ここから来ているのでしょうか?!
辞書によると、
(1)食べた物がよく吸収されて栄養となる。
(2)学んだ知識・経験などが完全に身について将来の活動に役立つようになる。
と定義されています。

単なる断片的な知識として頭の中にあるだけなら、いわゆる「論語読みの論語知らず」です。 咀嚼、反芻したり、実践していかなければ身につかないわけですね。

イエスは、みことばが血となり肉となった方です。
みことばを読むだけでなく、味わわなくては、イエスを頭で理解しているだけのことになります。 イエスを味わうためには、できれば、目だけでなく、五感すべてを働かせるのが望ましい。 わざわざパンを食べ、ぶどう酒を飲むのは、そういう象徴的な意味があるのだと考えたいです。  

みことばを味わうことはイエスを味わうこと、イエスを味わうことは命のパンを食べ、永遠の命を飲むことといえるでしょうか。
返信する
ありがとうございました。 (鹿嶋)
2009-01-11 14:20:09
Sabiaさん
 コメント有り難うございました。
返信する
いきなり奥義で (鹿嶋春平太)
2009-01-12 16:43:51
スモールグループ活動は、誰かのコメントにまた他の人がコメントする、
という形で相互知識提供がなされていくのが神髄ですが、
今回ISさんが取り上げてくださった聖句はインカーネーションを述べたもので、
これは奥義に属するところなようです。

いきなり奥義で、他の方もコメントが大変かも知れませんね。でも~

>いろいろ書きたいことはあるのですが、
混乱しないようになるべくコマめにコメントします。

~ということですので、次々に出してみてください。
他の方が「これには一言・・」と思われるものも出てくると思います。

返信する
[興奮」の中身とは? (鹿嶋春平太)
2009-01-13 05:33:55
>イエス様がことばであるということから
いろいろなことに目が開かれるようで、
とても興奮しています。

~~この[興奮」の中身を、春平太は独断と偏見でもってこう考えました。
ISさんは、福音についてこれまで多くの知識を受けてきておられます。
でも、それらには何か「もや~っ」としたところ、
漠然感が伴っていたのでは?


それらの多くが、[創主から出た言葉が肉化した存在」という知識によって、
一気に晴れたのではないか、と。
奥義とはそういうもののように思います。

+++

[イエスは創主(神)の子」といわれても
何かはっきりしないところがありました。
それが、通常の人間と違って、聖なる創造主の言葉が肉化した存在、
となれば、明確化する。

 通常の人間の肉体と全く同じな欲望を持たない肉体、
という属性も考えられてくる。
それが従来の諸知識にあったこれまでのもやもや感を解いてくれる。

この短期的プロセスが、観念(アイデア)の変化が
知的興奮を生むのではないでしょうか?

+++

人の知性は、こういう機会に最も躍動するのではないでしょうか?
 多くの謎が一気に氷解していくときに。
そして、こういう体験は、SGで自由に疑問、感想を披露して
やりとりする方法以外に、もてるでしょうか?

聖書の中身は無尽蔵です。
これを解きほぐし身につけていくための、最も効率的な手段は、
解釈自由、意見自由のSG方式、この弾力的で、民主的で、和解的な方式以外に
見あたらないのではないでしょうか?

そしてこれは、学校教育、家庭教育
(米国ではホームスクールが盛んですよね)
にも通じる真理かもしれません。

返信する
修行の身です (IS)
2009-01-13 10:46:15
ISです。
鹿嶋先生の補足で、あぁそうだったのかとすっきりしてきました。
私は難しいことを学んでいないので、常識的なことを大発見のように書いてしまうことがあるかもしれませんが、皆様温かい目で見守ってください。愛あるご指摘、ご意見はWelcomeですのでよろしくお願いします。

ヨハネの福音書の始まりはずっと惹きつけられてきた箇所です。
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。1章1節」
この「ことば」がイエス様になったわけですから神様とイエス様は同一だと理解してよいわけですよね。
イエス様が神様のもとに帰られた後、この世に送られたのが聖霊ですからこれも神様と同一でいいわけですよね。
というわけで、「ことば」をキーワードにして三位一体ということが分かってきました。

ここ数年、神様(創造主)の偉大さを考えるようになりました。鹿嶋先生のブログを読むようになったのもこの辺がツボにはまったのではないかと思います。
最近特に感じるのはとても言葉や思いでは言い表せないほどの圧倒的な存在だということです。
三位一体が納得できたので、自分と神様の関係がはっきりしてきました。
創造主なる神様は圧倒的で目を上げることもできないお方。
主イエス様は親愛なる王様であり、自分のすべてを捧げて従うお方。
聖霊は目に見えないが、常にともにいて助けてくれる尊敬するお方。

現実の生活にこの思いを反映させ続けることはなかなか難しいので、一生修行の身かと思います。
返信する
血となり肉となる (IS)
2009-01-13 17:48:54
Sabiaさんのコメントから考えました。

>わざわざパンを食べ、ぶどう酒を飲むのは、そういう象徴的な意味があるのだと考えたいです。

なるほど、食べ、飲むという表現を使っていることに深い意味があると思います。

食べ、飲むということは肉体にとって不可欠なことです。そして健康な肉体には良いものを食べなくてはいけません。(ジャンクフードの食べすぎは万病の元です。)

そういえば、イエス様は食べ、飲むということをとても大切にされていたのではないでしょうか。
最初の奇跡で水を上等なワインに変えました。
一人分のお弁当を増やして何千もの人を満腹させたことがありました。
嫌われ者や罪人と言われる人たちと進んで食事を共にしました。
そして、弟子たちとの最後の親しい交わりは晩餐の時でした。

イエス様は食べ、飲むことを大いに楽しまれ、とても大切にされていたんだと思います。

食べて、飲むことと同じことが私たちの霊にも必要です。

(そうか!)イエス様は肉体である私たちに教えるために肉体の言葉で教えてくださったんですね!
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