前回の続きです。
どうして人間だけが、罪の赦しを得られるか?
不公平でないのか?
~~について。
天使も人間と同じく被造物です。
被造霊です。
どちらも罪を犯す可能性を持っています。
ロボットとしてでなく、自由に動く意志を持ったものとして創られていますから。
罪を犯さないにしてもそれは、その自由意志を用いて、罪を犯さないようにした結果です。
罪を犯す場合も、自由意志をそういう風に働かすことによって犯してしまうわけです。
その点は同じですが、罪を犯した後が違います。
人間は、悔い改めて、考え方を戻すと、赦される可能性を与えられています。
そして、イエスがこの世に人の姿で現れることによって、それが実現する道が開かれます。
十字架で人類の罪を一身に担い、血を流すことによって、それによる赦しを真理だと受け入れた人間には救いが実現するようになる。
これが福音ですよね。
ところが聖書では、天使には福音がないんだよね。
罪を犯して、サタンと天の諸々の悪霊になった天使たち、この方々には、悔い改めて、罪赦される、という場面はありません。
で、そのまま、最後の審判まで行ってしまう。
ということは、悔い改めて赦される道はない、ということに事実上なりますよね。
<霊になると霊界が見える?>
となると天使に対しては、とても厳しいですね。
どうしてそんな差があるんでしょうか。
その観点から眺めてみますと、天使と人間には色んな違いがあることが浮かび上がってきます。
まず、天使は霊界のことが始めから見えている、ということです。
人間はどうか?
今、我々は霊界が見えませんよね。
見えるという人もいますけれど、大多数は見えません。
だけど、死んで肉体を抜け出ると、霊界が見えるようなんですね。
前回の「金持ちと貧乏人ラザロ」のところを想い出しましょう。
ここで金持ちは、遠く離れたパラダイスでアブラハムの懐に抱かれたラザロを観ています。
もちろん、アブラハムも観ています。
どちらも死後の霊になった人ですから、これは霊界の話です。
それを、元金持ちは、観て話しかけているんですね。
どうも、霊だけになると、霊界が見えるようです。
<天使は見えていてやっている>
ならば、天使も霊界が見えていることになりますね。
全身、霊ですから。
罪というのは、創造主から出たルールに反することです。
ルールは霊界のものです。
霊界が見えているというのは、そのルールもよくわかっていると言うことですね。
サタンになった天使も、それに従った配下の天使たちも、そういうのがよく見えていた。
それでもって、ルールを踏み破ったわけです。
<人間は霊界が見えないでやっている>
では、人間はどうでしょうか?
アダムもイブも、エデンの園にいたときには、その霊は肉体を着ています。
だから霊界は見えなかったんですね。
もちろん、アダムは創主のみむねに従って暮らしていました。
それは霊感でもって創主と交信できていたからでしょう。
だけど、その認識は霊界が目に見えているような、はっきりしたものではなかったでしょう。
霊感はしょせん、霊感ですからね。
おまけに、彼は自らイニシャティブを取って創主のみむねに反したのではありませんでしたよね。
愛する妻、イブが反してしまった。
それを知って、自分も知恵の実を食べてしまいました。
イブを深く愛し、精神的に一身同体になっていたからでしょう。
自分だけが食べなかったら、自分はエデンの園に残れますけれど、イブは出されます。
イブは一人で苦難の世界で暮らすことになるのです。
アダムは、そんなことさせられなかったのでしょう。
同情の余地、ありますよね。
では、イブはどうだったか?
サタンに動かされた蛇の言葉を、「そうなの?」と簡単に受け入れてしまいますね。
これから察するところ、彼女は霊感もあまり強くなくって、創主との交信も薄いものだったのでしょう。
アダムが行動するように、行動していたといったところではないでしょうか。
おまけに彼女は悪を知りません。
嘘、偽り、欺しをする存在がいることを経験認識しておりません。
それをサタンが誘導する。
欺すのは赤子の手をひねるようなものだったのではないでしょうか?
(それもあって、春平太は、これも創造主・イエスの計画の中にあったと解読すべき、とこのブログで書いたのでした。
二人が罪を犯すのも、イエスの計画の一環だったのでは?、と論じましたよね)
こういう風ですからね、人間の罪は。
見えないでやっている。
だから、それを悟って悔い改める、ということもあり得ることになります。
対照的に天使は、最初からみんな見えているわけですから。
後から悟るも、悔い改めるも、そういう状況が成り立たないんですね、そもそも。
~~これが、天使には悔い改めと赦しが与えられていない、ことの主要な理由の推測です。
皆さん、どう思われますか?
(続きます)
どうして人間だけが、罪の赦しを得られるか?
不公平でないのか?
~~について。
天使も人間と同じく被造物です。
被造霊です。
どちらも罪を犯す可能性を持っています。
ロボットとしてでなく、自由に動く意志を持ったものとして創られていますから。
罪を犯さないにしてもそれは、その自由意志を用いて、罪を犯さないようにした結果です。
罪を犯す場合も、自由意志をそういう風に働かすことによって犯してしまうわけです。
その点は同じですが、罪を犯した後が違います。
人間は、悔い改めて、考え方を戻すと、赦される可能性を与えられています。
そして、イエスがこの世に人の姿で現れることによって、それが実現する道が開かれます。
十字架で人類の罪を一身に担い、血を流すことによって、それによる赦しを真理だと受け入れた人間には救いが実現するようになる。
これが福音ですよね。
ところが聖書では、天使には福音がないんだよね。
罪を犯して、サタンと天の諸々の悪霊になった天使たち、この方々には、悔い改めて、罪赦される、という場面はありません。
で、そのまま、最後の審判まで行ってしまう。
ということは、悔い改めて赦される道はない、ということに事実上なりますよね。
<霊になると霊界が見える?>
となると天使に対しては、とても厳しいですね。
どうしてそんな差があるんでしょうか。
その観点から眺めてみますと、天使と人間には色んな違いがあることが浮かび上がってきます。
まず、天使は霊界のことが始めから見えている、ということです。
人間はどうか?
今、我々は霊界が見えませんよね。
見えるという人もいますけれど、大多数は見えません。
だけど、死んで肉体を抜け出ると、霊界が見えるようなんですね。
前回の「金持ちと貧乏人ラザロ」のところを想い出しましょう。
ここで金持ちは、遠く離れたパラダイスでアブラハムの懐に抱かれたラザロを観ています。
もちろん、アブラハムも観ています。
どちらも死後の霊になった人ですから、これは霊界の話です。
それを、元金持ちは、観て話しかけているんですね。
どうも、霊だけになると、霊界が見えるようです。
<天使は見えていてやっている>
ならば、天使も霊界が見えていることになりますね。
全身、霊ですから。
罪というのは、創造主から出たルールに反することです。
ルールは霊界のものです。
霊界が見えているというのは、そのルールもよくわかっていると言うことですね。
サタンになった天使も、それに従った配下の天使たちも、そういうのがよく見えていた。
それでもって、ルールを踏み破ったわけです。
<人間は霊界が見えないでやっている>
では、人間はどうでしょうか?
アダムもイブも、エデンの園にいたときには、その霊は肉体を着ています。
だから霊界は見えなかったんですね。
もちろん、アダムは創主のみむねに従って暮らしていました。
それは霊感でもって創主と交信できていたからでしょう。
だけど、その認識は霊界が目に見えているような、はっきりしたものではなかったでしょう。
霊感はしょせん、霊感ですからね。
おまけに、彼は自らイニシャティブを取って創主のみむねに反したのではありませんでしたよね。
愛する妻、イブが反してしまった。
それを知って、自分も知恵の実を食べてしまいました。
イブを深く愛し、精神的に一身同体になっていたからでしょう。
自分だけが食べなかったら、自分はエデンの園に残れますけれど、イブは出されます。
イブは一人で苦難の世界で暮らすことになるのです。
アダムは、そんなことさせられなかったのでしょう。
同情の余地、ありますよね。
では、イブはどうだったか?
サタンに動かされた蛇の言葉を、「そうなの?」と簡単に受け入れてしまいますね。
これから察するところ、彼女は霊感もあまり強くなくって、創主との交信も薄いものだったのでしょう。
アダムが行動するように、行動していたといったところではないでしょうか。
おまけに彼女は悪を知りません。
嘘、偽り、欺しをする存在がいることを経験認識しておりません。
それをサタンが誘導する。
欺すのは赤子の手をひねるようなものだったのではないでしょうか?
(それもあって、春平太は、これも創造主・イエスの計画の中にあったと解読すべき、とこのブログで書いたのでした。
二人が罪を犯すのも、イエスの計画の一環だったのでは?、と論じましたよね)
こういう風ですからね、人間の罪は。
見えないでやっている。
だから、それを悟って悔い改める、ということもあり得ることになります。
対照的に天使は、最初からみんな見えているわけですから。
後から悟るも、悔い改めるも、そういう状況が成り立たないんですね、そもそも。
~~これが、天使には悔い改めと赦しが与えられていない、ことの主要な理由の推測です。
皆さん、どう思われますか?
(続きます)
天使は神に仕えるように造られましたが、同時に御心をよく知らされていました。(ルカ15:10)そして、それを知っていながら罪を犯した天使は、聖霊に逆らった者です。『神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引渡し、さばきの時まで暗闇の穴の中に閉じ込めてしまわれました。』(Ⅱペテロ2:4)ですから、天使の成れの果てのサタンには悔い改めと赦しがないのだと思います。
ここで、人間の罪についても同様に悔い改めても赦されない罪があるかどうかを考えてしまいます。
『一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わった上で、しかも堕落してしまうなら、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることは出来ません。』(へブル6:4~6)
『もし私達が、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、裁きと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい人を、恐れながら待つほかはないのです』(へブル10:26~27)
以上の聖句から、悔い改めても神の赦しに預かれないこともあるようですが、具体的にどういう人か?どういう場合か?は、私には分かりません。
神を信じてクリスチャンとさせていただいた者が背信した時か?または、特別な人、例えば牧師が背信した時か?などとも思います。どうして、後者を特別に考えたかといいますと、Ⅰテモテ:5:22に『だれにでも軽々しく按手をしてはいけません。』とありますし、また同じ3:6bには、監督の職につきたい人に『悪魔と同じ裁きをうけることにならないためです。』とあります。そこから、牧師のような按手を受けた特別職の人が背信した場合は、悪魔と同じ裁きをうけるのかしら?と思ったり、、、でもやはり、わかりません。わかりませんが、聖書に書いてあるので、人の中でも悪魔と同じ裁きを受ける人はいると思います。
私は、天使が悪魔になった時は、例外なく悔い改めと神の赦しはない。人間の場合は、ほとんどの人は赦される、でも限定で赦されない人もいる、という解釈です。『だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人の為に、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません(Ⅰヨハネ5:16)
アダムは創主のみむねに従って暮らしていました。それは霊感でもって創主と交信できていたからでしょう。(それなら、どの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べる時、あなたは必ず死ぬ。という御言葉を覚えていたはずです)
彼は自らイニシャティブを取って創主のみむねに反したのではありませんでしたよね。愛する妻、イブが反してしまった。(実を手で渡せるぐらい近くにいたのですから、蛇との会話も当然聞こえていたはずです。蛇との受け答えを訂正し、イブに取ることを拒むことも出来たはずです。それなのに、それを見すごしたことは、神が生き物すべてに名前をつけるさせる程に主導権を持たせたアダムの義務放棄。言葉を代えれば、自らinitiativeを取って罪を犯した、ということと同じだと思います)
それを知って、自分も知恵の実を食べてしまいました。イブを深く愛し、精神的に一身同体になっていたからでしょう。(精神的に一心同体になっていたのですから尚更、愛するもののためにも罪を犯すことを阻止するのが愛であり、アダムの神から与えられていた役割でもあったと思います)
自分だけが食べなかったら、自分はエデンの園に残れますけれど、イブは出されます。イブは一人で苦難の世界で暮らすことになるのです。
アダムは、そんなことさせられなかったのでしょう。同情の余地、ありますよね。(これは、あまりに罪を犯した者の立場になって同情するあまり、善悪が転倒してしまっているように思います)
では、イブはどうだったか?アダムが行動するように、行動していたといったところではないでしょうか。おまけに彼女は悪を知りません。
嘘、偽り、欺しをする存在がいることを経験認識しておりません。(これは、アダムも同じでした。では、どうしてサタンはアダムでなくイブだったかというと、神から直接始めに聞かされていたのがアダムだったからだと思います。ちょっとだけ言葉を代えてイブをたくみに誘惑していますが、直接神から言われたアダムよりだましやすいことを知っていたサタンの悪知恵でした。イブはアダムに相談することもできましたが、助け手の立場をわきまえなかったことにサタンが入り込んだのだと思います)
それをサタンが誘導する。(アダムが神の言葉を甘く捕らえていた、そのアダムと同じにイブが行動していた、そしてよりつけ入りやすい方を誘惑したのだと思います)
『だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。』『罪のうちを歩む者は、悪魔から出たものです』『神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。』(Ⅰヨハネ36~9)とあります。イエスは人にイエスのうちにとどまることを望まれた。善悪の知識の木はその為にありました。そして、罪のうちを歩まないことを望まれた。決して、ご計画の一環として罪を犯させることなど無かった。それは、悪魔から出たもの・・・だと思います。これが、アダムとイブが犯した罪はイエスの御計画の一環ではない、と私が思う、その理由です。
米国サザンの聖句主義教会では、礼拝前に小部屋に分かれて、こうやって活発に議論してたなあ・・。礼拝と同じ長さの時間を割り当てて。
その知的活度、レベルの高さ、知的興奮、快適さ、は忘れられません。ああ、もう一度いきたくなった・・・。
~~鹿嶋の根拠は「考える宗教へ」のカテゴリーに書いていますので、見てくださいね。
~~創主と交信できる霊とは、「いのちエネルギー」を充電できる霊だと、春平太は理解しています。アダムより前に造られた人間の霊は、充電できない霊だと解読しているわけです。
ともあれ、創造霊だと言うことはありません。もしそうだったら、人間はイエスと同じになってしまいますからね。創主と交信できようが、出来なかろうが、被造霊であることには間違いないでしょう。
記録がありました(管理者にはその情報が与えられます)。
で、久しぶりに記事とコメントを読みました。
じゅんこさんからのコメントがすばらしく、masaさんからのものがともて勇気を与えてくださる
ものであることに改めて気付きました。
じゅんこさんからの括弧の中の意見には、さらに応じるべきものが
沢山ありました。
これに即座に対応し、みんなでさらに議論を積み上げて行かれるのが
現場のスモールグループのよさですね。
ネットでは、その点、限界があることをも悟りました。
じゅんこさんは、もう十分SGをリードできる段階に達しておられていますね。
主のためのお働き、しておられるのかあ・・・。