いま筆者は「米国への無知を正す」というタイトルで、米国の群を抜く政治的有能さの構造を考察している。
その視野の下で今回は、「旧約聖書には創造神からのメッセージ受信記録」がふくまれれている、という宣言にどう対応すべきか、を考える。
<「笑わせるな」と「信じます」>
もし「創造神メッセージである可能性につきどう思うか?~と問うたら、日本では二つの反応が出るだろう。
一つは「アホか」「笑わせるな」で、これは日本の一般人の大多数だ。
だが、数は少ないがもう一つの反応がある。
「絶対そうだと信じます!」がそれで、これは日本のクリスチャンの答えである。
日本にはほぼこの二つのグループに尽きるように見える。
そういう日本の中に住んでいると、これが当たり前のように思えてくる。
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だが、筆者はあるとき、こんな疑問を抱いた。
「預言者(著者)が書き留めた旧約の言葉が、創造神からのメッセージの受信記録である可能性」という命題は、その中に沢山のテーマを含めている。
そもそも万物の創造神なる存在がいるかどうか。
存在するとしても、その方が、人間にメッセージを与えることなどありうるか。
メッセージを与えたとしても、預言者(超霊感者)がそれを実際に受信したかどうか。
~等々だ。
けれども、これらはみな「見えない物事」が存在する可能性に関する問いだ。
見えない存在のことについて、「笑わせるな」とか「絶対信じる」だけというのはおかしいのではないか。
これを可能性のパーセンテージで示したら、「笑わせるな」組は0%、「絶対信じます」組は100%となるだろう。
こんな両極端だけがあって、その中間がないのは何故だろう。
<合理的には五分五分>
そもそも人間には理性(筋道立てて考える能力)が備わっている。
これに素直に従えば、見えない世界のことは、見える世界のことのように断言はできないはずだ。
こういう世界の存在可能性については、人間が合理的に言えるのは、「まずは五分五分」となるのではないか。
そこで、こんな疑問をぶっつけることが出来る。
まず、「笑わせるな」組に対しては、「見えない世界のことなのにそんな可能性は全く存在しない」なんてどうして言えますか?~と。
彼等は答えに窮するだろう。
他方「絶対信じます」組には、「見えない世界のことなのに、100%の可能性で存在するなんてどうして言えますか?」~と質問する。
もちろん彼等も同様に窮するだろうが、こういうだろう。
「けれども可能性を絶対に100%信じなかったら、信仰生活なんて出来ませんよ」と。
「その心があるから、宗教活動をやっておられるんですよ」~と。
<肯定と否定を「重ね合わせ」たままで進む>
だが、はたしてそうだろうか?
五分五分という認識には、「可能性を肯定する認識」と「否定する認識」の二つが含まれている。
この「肯定と否定とを重ね合わせて」そのままで進んだらどうだろうか。
そして「肯定する五分」の方に軸足を置いて、その可能性を吟味することは出来ないだろうか。
「可能性を否定する」五分の方に立てば、探求する意欲など実際には起きないだろう。
だが、肯定の側に立てば、出来るような気がする。
<素材の実力>
そうやって吟味が始められたら、あとは、素材の実力がものを言うだろう。
それはもう、歴史を見るしかないだろう。
<奥義が見えてくる>
旧約聖書については、「初代教会」〔最初のキリスト教会)への参集者たちは聖句の自由吟味を続けた。
小グループで自由な相互吟味を続けると、奥義と思えることが見えてくることもあった。
そこには、「これは人間が経験を積み重ねただけではとても得られないだろう」と思える知恵があった。
もちろん、それが「創造神から伝えられた真理であるかどうか」は究極的には人間には言えない。
だが、解読できたとき、「この聖句は創造神からのメッセージ受信記録にちがいない」という確信が彼等の心の内に生じた。
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「これは真理だ!」と確信する知識に出会ったとき、人は感動する。
そして、強烈な覚醒感を体験する。
この喜びは他では得がたい。
そこで彼等はまた、他の聖句の吟味に入っていった。
そういう活動が、現代でも聖句吟味者の間で続いている。
それはまた、旧約聖書には未解読な聖句が残存し続けていることをも意味する。
<二つの組を比較すると>
初代教会の聖句自由吟味者たちの姿勢に、前述した日本の二つの組を比べてみると、こんなことも見えてくる。
結論から言えば、両者とも、理性の示唆するものをストレートに口に出せない状態にあるように見える。
こうした問題に反応するときの、日本人の心理状態は、自由ではないのだ。
恐怖心がわき上がり、それに左右されるのだ。
<もう「見えない世界」の話は信じない!」>
「笑わせるな!」組は「見えない世界の理論」そのものに恐怖心を抱いている。
それは戦後日本人の意識に染み込んだものだ。
太平洋戦争後、日本人は「我々は国家神道に騙されて、戦地に駆り立てられた」という「一億総反省」をした。
それが「神などの見えない世界のことは、相手にしたら危ない」という恐怖心を心底に形成した。
その結果、「触らぬ神にたたりなし」で「そういう話は、はなから相手にしないのがいい」という姿勢ができた。
それが次の世代にも伝わり、戦後日本人の風習となった。
「アホちゃうか?」という反応はその結果なのだ。
<関係が壊れるのが怖い>
他方、我が国のキリスト教会の信徒にみられる「絶対信じます!」という反応には、「現在享受している人間関係、社会関係が壊れるのが怖い」という思いが潜んでいる。
彼等は「聖書の言葉は神からのメッセージです」といわないと牧師さんからも「信仰がない!」と叱られる。
仲間の教会員からも非難を受け、冷たい目で見られ、ことによったら集団から放逐される。
それが怖いから「100%信じてます」という非合理的な反応をするのだ。
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日本人の「見えない世界の事柄」への姿勢は、とても幼稚な状態にあると思う。
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