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~~前2回での予備知識をもとに、本日は核心に入ります。
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=聖句=
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(13章34節)
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弟子の足を洗って「諸君の主である私が諸君の足を洗った。これからは諸君も互いに足を洗い合いなさい」というイエスは、こういうことを考えていたと思われます。
---私の教団は国家や会社のような「世」の集団とは、全く別の組織形態をとらなければならない。それは教団の誰もが超越的な権威を持たない組織形態だ。だから、その権限を委譲することもないし、階層的命令系統を備えた管理組織もない~~と。
しかしそんなことで、組織としての一体性が保てるのでしょうかね? メンバーが相互に連携して組織として動けるのでしょうか。
イエスは保てる、動けると考えていたのです。集団の成員が相互に愛し合い、奉仕し合うということによってそれは可能になる~~と。
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弟子たちはこれから、イエスから教わったことを新会員に教えていく教師的立場に立っていきます。しかしだからといって、組織上で命令者の立場に立つのではない~~とイエスは考えていたのではないか。
むしろ教えてあげる新会員に対して奉仕する。足を洗ってあげる。もちろん、新会員も先輩、長老の足を洗います。しかし、長老も新参者の足を洗ってあげるのだ~~と。
それは現実には小グループの連携体になるのですが、とにかくそのようにして愛を持って奉仕し合うというスタンスが全員にあれば、それで、集団は一体性を保っていく。イエスは、このような組織編成方式を弟子たちがとるように期待したと思われます。
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その後ですぐに次のような命令を与えたことがそれを示唆しているようです~~
「互いに愛し合いなさい。私が諸君を愛したように、諸君も互いに愛し合いなさい」(34節)
---これは推奨ではありません。命令であります。
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<ministerは仕える者>
イエス(の言葉)を信じて集う者が互いに愛し合うのは、イエスの「命令」なのですね。弟子たちが新しい組織編成原理を「必ず」実行するように、それが出来るようにするための命令を念入りに発しているわけです。
これから弟子たちは、大教団の指導者であり大幹部になっていきます。そのとき君たちは、信徒たちに超越した権威を持って対面するようになってはいけないよ。幹部風を吹かせてはいけないよ。尊敬されてもひたすら奉仕者として尽くしなさいよ---イエスはこう教えたのでしょう。
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牧師や他の聖職者を英語でministerといいます。これはもともと「仕える、奉仕する者」というラテン語から来ている言葉なようです。
相互奉仕の方式で、集団が一体性を持つ。一つになる。すると世の人々は、それをみて「これは、世の集団とは違う。イエスの集団だ」と識別するでしょう(35節)。イエスが命じた教団組織方式はこれでありました。
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