これまでの話を読んで、笑ってしまった方もおられるかもしれませんね。
「この人、ホントに知識人か?」
「鹿嶋春平太って、変人と違うか?」
<サムシングかナッシングか、と言う問題>
だが、これは理念を持つか、無理念か、と言う問題です。
SF的だろうが、空想科学的であろうが、一つの空間理念をもつのと
何も持たないか、と言う問題です。
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かっこ悪いと言って、何も持たなかったら、聖書の物語を
その中に位置づける全体観をなしで、読むことになります。
すると、すべての物語相互の関係を位置づけることが出来なくなる。
ここの話を個々バラバラに読むことになります。
<体系的思考が育たない>
これは知性にとても悪いことです。
SF的だろうが、その理念の中に個々の物語を暫定的にでも
位置づけながら読むときの、意識の働きを想像してください。
この状態が、いかに、精神の広がりを造り、体系的、論理的思考を作り出すか。
いかに知的な恩恵をもたらすか。
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だが、それが納得できても、いざやるとなると、出来ない人が日本には圧倒的に多いです。
日本人は、なにか新しい世界観を提示されると、「これは正しいだろうか」と
反射的に思ってしまうのです。
<学校教育の後遺症>
学校での教育が原因です。
教科書知識を「これが正しいものだぞ」と先生に与えられ続けたことによる
後遺症が大きいのです。
だから、知識を暫定的なものとしてもてない。
怖くて持てない。
ましてやそれを自由吟味するなどできない。
これ大変なことなんですけど、事実です。
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鹿嶋が『バプテスト自由吟味者』で紹介した、聖句自由吟味活動が
いかに貴重なことかが、このことからもわかります。
自由吟味活動は、いまの日本に、宝石のように価値あるモノなのです。
これを実践する、具体的な手順を真剣に考えねばなりませんね。
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