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さて懸案の問題に入ります。
創造霊と共にいた「ことば」がどうして創造主という「霊」になるのか?
つづめていえば「ことばがどうして霊になるのか」「ヨハネはこの点どう考えていたのか」
ということです。
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<言葉は「思い」を含む>
まず言葉一般について考えてみます。
人間が話す言葉って何でしょう?
それは「思い」を含んでいます。
我々は言葉を使う際には、なにか、「思い」ないしは「イメージ」を持ちますよね。
石という言葉を発する際には、まず、道ばたに転がっている硬い小さな個体のようなものを「思って」いる。
そうイメージしています。
そのイメージを人に伝えたいとき我々は「イ・シ」という音を発します。
この音はそのイメージにつけた記号です。
「石」という文字も同じく記号です。
つまり、言葉とは「思いに記号がついたもの」です。
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この記号と思いとの対応関係は、国によって異なります。
日本では道ばたに転がっている硬い小さな個体のようなイメージに、「イ・シ」という音や「石」という文字を対応させています。
これがアメリカでは、対応する記号が「ストーン」という音になったり、「stone」という文字になっています。
このように民族や文化によって対応「記号」は違いますが、言葉が「思いやイメージ」を含んでいることは確かです。
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<「思い」の深いのが「念」>
ちなみに思いの深いものを「念」と言います。
さらにその「念」にイメージの中で筋道づけたものを「理念」といいます。
「理」は「筋道」という意味です。
がともあれ「言葉が常に思いを含んでいる」ことは確かです。
言葉が発せられたということは、念が発せられたことでもあります。
言葉は念でもあるのです。
そしてヨハネは言葉のもつこの側面に着目していたと思われます。
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<霊は「思い」を持つ意識体>
そして思い(意識)を発する本体は意識体です。
その意識体が霊です。
創造霊も意識体であって、思いを発します。
天使や人間といった造霊もまた意識体であって思いを発します。
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<霊から出た「思い」が独立した霊となるという思想>
結論的なことを先にいってしまうと、ヨハネは
「意識体から思い(意識)が出るとき、出た思いが独立した意識体になることもある」
という考えを持っていたと思われます。
こういう思想は人間世界には結構あるようです。
たとえば日本の時代劇に、敵に見立てた小さな人形を柱に貼り付けて、
「死ね!」「死ね!」と釘を打ち付けたりする場面があります。
昔実際にそういうことが良くされたようですが、あれもやはり、
そういう「思い」が独立した意識体(すなわち霊)となって、
その相手のところに行って健康を害する可能性を期待しているからでしょう。
どうも人間社会には意識体が強烈に念を込めると、そ
れが意識体として独立して動き出すことがあるという思想があるようです。
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<それらしき実例もある>
また、それは思想だけでもないという経験を春平太はしております。
鹿嶋は現役教師時代、ゼミナールというのを長年続けていました。
3~4年次にわたる2年間の小グループ講座なので、学生と個人的にも親しくなります。
彼らの中には霊感の開けたものもおりました。 霊が見えるという学生も二人いた。
一人は男子、一人は女子です。
彼らの体験談にはとても作り話と思えないものが多く、興味を持ってよく耳を傾けました。
女子学生の方が卒業して会社に就職しました。
その彼女が何年かして先輩の女性上司社員から攻撃を受けるようになりました。
先輩はどうしてもやめさせたくて、何かに憑かれたように毎日のように攻撃したそうです。
そうたなかであるときから女性上司の背後に憎しみに満ちた顔の「生き霊(いきりょう)」が
みえるようになった」と彼女はいっていました。
結局彼女はその上司のいじめ攻撃に耐えれきれず退社しました。
「生き霊」は現実にあるかも知れないのです。
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ヨハネはそういうイメージで創造霊とそこから出た「ことば」(思い、念)を
とらえたのかもしれません。
創造霊という意識体から深い思い(意識)が出たとき、それが独立した意識体になったとの霊感をえた。
その意識体が霊イエスであったとのイメージを得たのではないかと思われます。
まとめましょう。
~「思い」は「ことば」でもあるから、創造主から出た念をヨハネは「ことば」と表現した。
そしてそれが独立の意識体(霊)となった。「霊イエス」になったと解した。
そしてその霊は創造神から「出た」ものだから(創られたのではなく)、
創造神と同じく創造霊だったのだ。ヨハネはそうと述べていると鹿嶋は解します。
ちなみに創造霊という意識体の意識は常に「聖なる」意識、ということに聖書ではなっています。
霊イエスも創造霊ですから、父なる創造神と同じく「聖なる霊体」ということになります。
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<「生き霊イメージ」のプレゼント>
意識体から出た「ロゴス」が独立した生き霊(意識体)になって行動する、
というイメージは、ヨハネ伝にとても明確なイメージを与えてくれます。
イエスのこういう聖句もあります
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「わたしが諸君に話したことばは、霊であり、またいのちだよ」
(6章63節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここでの「ことばは霊であり」は、なかなかわかりにくい漠然としたところです。
だが、これは~
「イエスという意識体から出たことばは、イエスから分離独立した意識体となる。
すなわち独立の生き霊になって活動する」
~とイメージすると、突然理解がはっきりしてきます。
もう一つイエスの言葉をあげましょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人を裁くものがあるよ。
わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのだよ」
(12章48節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
これもわかりにくいでしょう。
比喩表現として解するとある程度処理できそうでもあります。
すなわち「最後の審判でさばかれるとき、イエスの語ったことばが法となる」というのを、
「ことばが裁く」と比喩的に述べたとするわけです。
だけどこれは「生き霊イメージ」を用いると、もっと理解が鮮明になります。
すなわち
~「イエスの話したことばが独立した生き霊となっていて、
その霊がイエスを拒んだ人に有罪宣言する」
~ともっと直接的にイメージできるのです。
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<言霊(ことだま)の思想>
一般思想としても、「人間の口から出る言葉には霊がこもっている」というものがあります。
それを表現するのが「言霊(ことだま)」という語です。
分離独立した意識体になるかどうかはともかくとして、人間の言葉には霊がこもっている。
そして人の言葉の場合は、とりわけ「念」が強いと、
それは発する人から分離して独立の意識体(霊)になる、という思想にもつながっている。
それが時代劇における「死ね!死ね!」だった、と位置づけると、
全体を体系的にイメージできるのではないか、と思われます。
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