前回、第4回はわからなかったなぁ。
話に実感がともなってこない。
書いてる本人がそう言うのだから間違いない。
今回は、知識を補充して、なんとか実感をもてる方向にすすめてみよう。
<すでに霊感受信集があった>
補充知識の第一は、聖書という教典の中身である。
今の話では、旧約聖書が対象になるので(初代教会が出来るときには、旧約聖書だけしか存在していない)、これを主眼に述べよう。
この教典は、キリスト教の教典の一部に後になるのだけれど、開祖イエスが現れる400年も前にもう存在していた。
これは全く特異なことだ。
通常、宗教の経典は、開祖がなくなってから弟子がその教えを書いて保存しようとして作り始める。
ところが、キリスト教では、その教典は開祖が出現する前から既に存在していたのだ。
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旧約聖書は、霊感のとびきり優れた人物に示された幻(映像)の記録が中心になっている。
昔、イスラエル民族に超霊感者が周期的に出た。
かれらは預言者と呼ばれた。
幻で示されたメッセージを「言」葉にして「預」かる「者」という意味だ。
<モーセは過去を映像で見せられた>
最初の超霊感者は映画『十戒』にも描かれたモーセだ。
彼は、自らを「万物の創造神」と称する神から、幻を示され、記録した。
彼のその記録は、旧約聖書冒頭の五冊の書物として収録されている。
これを「モーセ五書」といい、その最初の書物が「創世記」だ。
この冒頭に、世界が創られる様が記されている。
モーセはその時には生まれていないのにどうして知ったかというと、その様を「幻で見せられたから」、となる。
彼はノアの箱舟とその時の大洪水の話も記している。
これもモーセが生まれるズ~と前の話だ。
では「モーセはどうしてそんなことが書けたの?」というと、これも「幻で示されたから」となる。
このようにモーセには、彼以前の出来事が幻で示されている。
そして、後の超霊感者(預言者)には、未来の幻が示される。
彼らはそれを歴史物語として記述することもあれば、詩の形で記録することもある。
がともあれ、その霊感記録集が旧約聖書の中核なのだ。
イスラエルの民もまたこれを「万物の創造神からのメッセージの受信記録と信じて」保存してきた。
<解読のいる教典>
さて、その幻の記録である。
それらはバラバラの事件として示されている。
その繋がりは説明されていない。
比喩(たとえ)でもって示されている話も多い。
だから、そのままでは、人間には筋道だった理解が出来ない。
これを理解するために、人間は「解釈」をする。
言い換えれば、聖句(聖書に記された言葉そのもの)を解読するのだ。
<初代教会では信徒も聖句解読をした>
イエスも、多くの解読を示して見せた。
弟子たちも、初代教会に集まった信徒たち(後の)に、聖句解読をして説明した。
そして参集した信徒たちもまた、小グループに分かれて、みんなで助け合って聖句を吟味し解読をした。
吟味・解読していくと「これは真理だ!」と皆で深く確信する解読にも至ることがある。
それは彼らの心に、深い感動を沸き上がらせた。
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神髄に触れるような解読が出来ると、ちから(しるしという)が現れることも多かった。
まあ、このあたりについては「まゆにつばする」読者もいるだろうが、その人は気楽に眉唾してたらいい。
とにかく、そういう体験を初代教会方式の活動をしている人々は、周期的にした。
この感動とよろこびが初代教会方式の活動者(つまり聖句主義で活動する人々)の心深くに浸透した。
この方式の小グループ(家の教会)は、教会発足後わずか30年で、全ローマ帝国に散在するようになった。
(この活動はいまもそっくりそのまま、米国南部のバプテスト教会や、北西部でのカナダとの国境線近くのメノナイト教会で行われていて、行けば簡単に観察させてくれる)
次回には、教理主義教会が台頭してくる様を述べよう。
(続く)
創世記も含めてモーセ5書というのは知っていましたが、モーセが幻を見ることによって書きとめたというのには驚きました。
旧約は新約の影とも言いますが、新約は旧約の聖句解釈ともいえるのではないでしょうか?そのような活動がキリスト教を世界へ広げる原動力になった。それを聖句主義とおっしゃるのですね。