鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

米国への無知を正す 6

2015年02月10日 | 米国への無知を正す





「米国への無知を正す」といいながら、オレはどうして教会の話など細々としているのだ?・・・

そうだ、要するに、米国の持つ力は、想像を絶するといっていいほどに活性化した精神・知性によって出来ていること、そして、それは聖句主義というキリスト教活動方法からでていることを、説明するためだ。

そのためには、聖句主義活動とはどんなものであるか、わかって貰わねばならない。

これがなかなか難しいのだ。
読者は、そんな活動を見たことがない。
言葉での説明には限度がある。
だから、鹿嶋は、ますます言葉を重ねる。

そういうことをやっているのだな・・・。




けれども、もし読者が聖句主義活動の現場を観察されたら、事態は突然わかりやすくなる。
そして、それは簡単にできるのだ。

米国在住の方は、電話帳を開く。
近辺の「バプテスト教会」と記されているところに電話する。
「ある事情でスモールグループでのバイブルスタディを見学したい」
~といえば、大歓迎で見せてくれる。

約束の日曜日の時間に、玄関で歓待担当者が待っていて見せてくれる。
これもサザン・ホスピタリティーだ。

+++

バプテスト教会は、南部のバプテスト地域には、クルマで5分走る毎に見えてくるくらい、たくさんある。
しかし、北部の、教理主義教会が優勢な地域でも、街にひとつはある。

米国では信教自由のためか、小さな街にも代表的な教派の教会はワンセットそろっている。
長老派、メソディスト派、ペンテコステ派などとならんで、バプテスト派の教会も必ずひとつはある。
米国在住者は恵まれている。

+++

しかし、日本でも大きい都会には、バプテストの名を付した教会が電話帳にひとつならずある。
そこに電話して、「スモールグループバイブルスタディをしているか?」と尋ねる。
やってると答えたところに「観察したい」との目的を言って行けばいい。

教会という所は「来る者拒まず、去る者追わず」の行動原理を持っている。
訪問したからと言って、「次回も、次回も・・・」と言ってくることはない。
ましてや、命まで取られることなどないから、安心して訪問したらいい。

知的・精神的活動は、現場を見ると認識が飛躍する。





・・・ということで、情報の補充を続ける。
今回は、カトリック教会に代表される教理主義教会の台頭と成長を示す。

我々は、キリスト教会というと、カトリックもバプテストも同じようなもの、と考えている。

だが、そうではない。
聖句主義教会と教理主義教会とは、まるで、別の宗教であるかのように、異質なのだ。

聖句主義教会の正確な理解をうるには、教理主義教会の特性を知ることが必須なのだ。
では始める・・・。





<教会参加者の質が変わる>

初代教会は爆発的成長をした。
新らしい宗教運動が急成長をみせると、いつの時代にも当初、近隣者は気味悪く感じるものだ。
初代教会に対しても、人々は恐怖し、また怒りを抱いて信徒の集会を襲撃したりした。

だが教会の成長は続行した。
教会開始後30年で、信徒はローマ帝国全土に広がった。
これほどに普及して、かつ「思ったほど有害でないな」とひとびとが知るようになると大衆の教会へのイメージは変わっていく。

聖句主義活動をするクリスチャンがいのちを投げ出しての社会貢献も大いにしたこともあって、迫害は急速に和らいでいった。




<癒やしも食料も与えてくれる>

初代教会では発足以来、参加者は生活面でも助けあっていた。

『使徒行伝』の(2章44~45節)には「信徒はもてるものを使徒たちのところに提供し、使徒たちはそれを信徒の必要に応じて分け与えていた」という記録もある。
加えて教会には、病の癒しも相変わらず現れていた。

こうして教会は大衆にもそんなに迫害されなくて「この世的な利得が得られところ」となった。

すると、参加者の質は変わってくる。
生活の世話や癒やしを受けられること主たる目的にして教会に参加してくる人が多くなる。

紀元二世紀に入ると、キリスト教会にはこの動向が急進した。
このころ、イエスの直接の弟子たちは、もう死んでいなかった。




<指導者が聖書の要約をつくる>

キリスト教会は「来る者拒まず、去る者追わず」という人間集団だから、世的な利得を主目的にしてやってくる人も受け入れる。
すると信徒の数は急増するが、新たな運営上の問題も浮上した。

こういう人々はスモールグループに編成してあげても、聖句自由吟味方式は実行できないのだ。

まずこういう参加者は聖句への探究心をあまり強くもたない。
裕福だがビジネスが忙しく、教会活動に多くの時間を割くことが出来ない人もいたはずだ。

それでも指導者たちは彼らに聖書の思想を知ってもらわねばならなかった。
加速度的に増えてくる新参加者の一人一人を手ほどきするには、相手の数が多すぎる。
担当指導者たちは結局聖書を簡素に要約して、「これがキリスト教の教えだよ」と示すしかなくなった。





<教理書を持つ教会、持たない教会>

この聖書の簡素な要約冊子が、(教団の)教理書だ。
今も、カトリックは「カトリック教理集」、ルター派は「アウクスブルグ信仰告白」、長老派は「ウエストミンスター信仰告白」、カルバン派は「カルバン信条」等々の冊子をもっている。

聖句主義教会のバプテスト派やメノナイト派は、教理書を持っていない。

+++

新教会指導者の仕事は加速度的に増えていった。
わかりやすいエッセンスの要約を一つだけ作るの労力のかかる仕事である。
指導者たちは同じことを教えねばならず、聖書を吟味しあって解釈の合意に至る必要があった。

聖句主義活動をしている信徒の指導者には、そういう仕事は全くない。
聖書の要約は信徒個々人がスモールグループ活動を通して各々の心に形成していったからである。

教理主義方式の教会は、必然的に、管理部門の大きい、頭でっかちな組織になるのである。





<教理主義教会は、霊的感銘を補填せねばならない>
 
教理主義教会の指導者の新業務は他にも出てきた。
聖書の要約を与えてしまうと、もう聖句探求の醍醐味はない。
奥義の発見をしたときの「真理を見出した!」という霊的感動もない。

そこで霊感の充足不全を、教会は様々なサービスで補填せねばならなくなる。
それは彼らに教会員の自覚を維持させるためにも必要だった。

(ちなみに真理に触れたという実感の欠如を補うには二つの方法がある。一つは演出である。
もう一つは厳格な律法で縛って上げることである。規律は宗教的感触も与えるのだ。
そして教理主義教会は主に前者の方法を採った)

その方策の代表は荘厳な雰囲気での儀式であった。
指導者たちは日曜日に厳粛な礼拝儀式を開催して大衆信徒を出席させ、敬虔な気分にしてあげた。
献金でもって壮大な礼拝堂(聖堂)の建設もした。

音楽は霊感を開く効果を持つので賛美歌の合唱も取り入れた。
礼拝を導く際には僧侶は壮麗な式服で登場した。
 
指導者はこうした礼拝儀式を毎週準備し実施した。

また指導者たちは週日にも、一般信徒の日常生活の折々に適した神秘感ある儀式サービスを提供した。
近親者が死んだら葬送の儀式をし、結婚には結婚式をし、子供が生まれたら祝福の儀式をしてあげた。
信徒はその時々にあらたまった霊的な気持ちなることができた。





<指導者需要が急増し職業僧侶が出現>

新方式教会では指導者の仕事は急に膨大になり、指導者への需要も増大した。
時とともにボランティア奉仕者だけではとても応じきれなくなり、定まった給金を受け取る職業僧侶が出来ていった。

職業として専念させると僧侶の奉仕能力は洗練され、多様化していく。
会堂設計に優れたものも現れた。
音楽編成能力に卓越したものも出た。
神学(聖書解釈学)能力に秀でた者は神学校設立に貢献し、後継僧侶を養成した。




<階層管理組織での統率が必要になる>

新方式の教会にはもう一つ独特の課題が生じてきた。
大衆信徒をまとめて教会の一体性を維持することがそれである。

初代教会なら、信徒は聖句主義活動で世界理念を共有しあって自発的に一体化する。
だが後から大挙して参加してくる大衆信徒にはそれはなく、指導者の方から統率してあげねばならなかった。

そのためには、多数の僧侶自身も管理階層を形成し整然と行動する必要となる。
まず自分たちが命令系統の中で組織的に行動し、信徒をその管理体制の中に組み込んで教会をピラミッド型組織となすのだ。

+++

職業僧侶の管理階層の職位は、司祭、司教、大司教であった。
司祭の職務は、各地の教会の礼拝や聖餐(イエスの肉と血を記念するため、パンと葡萄酒を口にする行為で、イエスはそれを命じていった)の儀式を執り行うこととした。
この職位は会社でいえば課長、係長に相当するだろう。

司教の職務は、そうした教会や司祭を地区ごとにまとめて統率することであった。これは部長である。
大司教のそれは、司教の管理する地区をさらに複数集めて管理統率することであった。これは重役だろう。

教団全体に関わる事柄は、当初は大司教の会議で決めた。
だが後年教皇(法王ともいう)という最終決定の絶対的権限をもった社長を登場させる。
これで大司教の会議で意見が分かれて膠着状態が続くようなこともなくなる。





<信徒には楽な教会>

新方式の教会では、大衆信徒の教会活動はとても楽である。
日曜礼拝はみなプロがお膳立てしてくれている。
信徒は日曜ごとに礼拝に出て座っていて、礼拝が終われば献金して帰ってくればいい。

教会はまた、結婚式や葬式も厳粛にやってくれる。
これは大衆にとって、とても属していやすい教会なのだ。

また教会側としても、教理主義方式ですると、一度に大量の信徒に対応しやすい。

信徒は加速度的に増大し、献金総額も膨大になり、教会は国際的大企業のようになった。
多国籍マスプロ大学のような大機関となった。

すると、僧侶の中に自分たちの教会こそが普遍的であるという考えも起きてくる。
「普遍的」すなわちラテン語の「カトリック」である。
教会には早くから自分たちの教会をカトリックであると自称する風潮が芽生えていった。




<五大教区と教皇の出現>

新教会は布教地域を五つの大教区にに分けて管理した。
ローマ、コンスタンティノープル、アレクサンドリア、アンティオキア、エルサレムがそれで、五大教区と呼ばれる。

そのうち、ローマ大教区の大司教は、常にローマ帝国政庁と直接交渉する地理的状況にあった。
当時は、電子メールもファックスもない。

すると制度上は五大教区の大司教の会議で決定すべき事項も、実際にはローマ大司教がローマ帝国政庁と話し合って決定することが多くなる。
それを事後的に大司教会議が追認するのだ。

この状況が進むなかで、ローマ教区から、自らの大司教を教会全体の教皇にすべきという案が出てきた。
もちろんそれには相応の聖書的な根拠がつけられていて、他の大司教はそれを受け入れた。

だが、コンスタンティノープル大司教だけはそれを容認しなかった。
彼はそのような聖書解釈には無理があると主張し、最後に、他者と別れて独自な教団としてやっていく道をとった。
そして自らの教団をギリシャ正教と称した。

英語ではグリーク・オーソドックスである。
グリークは主要テリトリーがギリシャだということを示し、オードドックスは「正統」という意味の用語であった。
つまりわれわれこそが正統なキリスト教会だと言ったのだ。

ローマ側も対抗した。
彼らは従来内々で用いてきたカトリック(普遍的)の語を使って、自らをローマ・カトリック教会と公言した。
「ローマ」は中心的テリトリーがローマだ、という意味である。

両者は「俺たちが正統」「俺たちこそ普遍的」と主張しあったわけだ。
が、ともあれこうしてカトリック教会という語が一般に用いられる名称になった。

+++

以後アレクサンドリア、アンティオキア、エルサレムの大教区は事実上、ローマ大教区に吸収合併されていく。

他方、ギリシャ正教会は、後にイスラム教勢力に押されて、事実上、ロシアを本拠地としていくが、名前だけはギリシャ正教会のままでやっていった。

そして、ローマ・カトリック教会は後に、ローマ帝国に公認宗教とされ、さらに帝国の唯一国教となっていった。

(続く)







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