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<写真は「ベニー・ヒン癒しのクルセード」:2004.10.14.アトランタ」(文中に説明あり)>
鹿嶋春平太です。今回、少し長いです。
前回、イエスの教えが急速に広がった理由を一口に言えば、人々の「心の芯の空洞を埋めたから」と書きました。空洞は、「人間死んでおしまいだから、究極的には生きていく意味はない、虚無である」、という漠然とした意識が形成していました。みなさんにもあるでしょう。
イエスの教えは、「永遠」という世界を持ち込む事によってここを埋めました。歴史の中で、具体的にいいますと、まず、「古代ローマ帝国」市民の心の空洞を埋めました。当時この人民の心には、この空洞がとりわけ、ポッカリと空いていたからです。
イエスの教えは、今のイスラエル地域で始められ、以後、西方のローマ帝国方面に宣教されていきました。それが、帝国人民の心の空洞を埋め、心の琴線にタッチしたのです。
この心理状況を、今回、ここで詳しく考えたいと思います。それをローマ市民に限ったことでなく、人間一般について考えてみたいと思います。その上で、当時のローマ市民には、この空洞がとりわけ明確に自覚されていた、という事を説明いたします。
<物理的イメージと純イメージ>
まず準備知識として、「物理的イメージ」「純イメージ」という言葉を説明いたします。
人間は友人とかいった物的な対象を認識する場合にも、その人の姿が写真のように、自分の目の網膜に映ったそのままを、心に描いているのではありません。それらの映像の中から、あるものを選んで残し、他の映像は切り捨てて、その人をイメージしています。
友情の念が強いときには、いい映像を組み合わせてその友のイメージを造っています。弱いとき、さらには、憎しみを持つときには、従来いい気持ちのしなかったような映像も組み合わせてイメージします。このように、我々がある対象を認識している場合、それは、目の網膜に映った映像のままでなく、それらを選択したイメージを心に造って認識し、記憶や知識を形成しているのです。
次にその映像(イメージ)には二つの種類があります。一つは、人間や自然など、外部の物的なものを網膜(や鼓膜)に受けて出来る映像です。これを春平太は「物理的イメージ」と呼びます。
もう一つは、そういう物理的な像が網膜に移らなくても、心に描いてしまうイメージです。これを「純イメージ」と呼びましょう。たとえば、ミッキーマウスや白雪姫、こういうものは物理的な世界には存在していません。けれども、ウオルト・ディズニーはそれを心にイメージし、そして、あのような形の人形やアニメキャラクターにして出現させたのですね。
@ @ @
前回、「我々は生まれて以来、五感に入ってくる物的なものを認識して世界イメージを造っている」という主旨のことを申しました。これを今述べた言葉で言いますと、人間は自然なままだったら「まず物理的イメージだけで」世界はこういうものだ、とイメージするという事であります。
そして、物理的イメージの世界では、「すべては無常であり、崩れ、消滅する」という世界観に自然になります。物的存在は、そういうものですから。
次に、「イエスは永続するもの(永遠)を持ち込んだ」といいましたね。そういうものは、物的な世界にはありません。だが、網膜に移った物理的映像を起点にしなくても、純イメージとして、人間はイメージを描く事が出来るのですね。つまり、イエスは「純イメージ」として永遠の世界のイメージを人々に提供したわけです。
<純イメージ世界の現実感について>
さて、そうすると、イエスの教えの説得力は、それをいかにリアルに感じさせるか、にかかってきます。この永遠という純イメージ世界の教えに対して、教えを聞いた人々がいかに現実感を抱くか、ということがポイントになるのです。
現実感が薄かったら、それは、心の琴線に触れません。現実感の事を英語でリアリティといいます。もしも、イエスの教える世界イメージを、物理的イメージ世界と同等に、いや、それ以上にリアルに感じる事ができたら、どうでしょか。それは、人々の心の奥底にタッチし、人を動かす事になるでしょう。
だがそもそも、純イメージが物理的イメージに勝るほどに、リアルに感じられることなどありうるでしょうか。それがあるのです。人の想像力、イマジネーションにはそういう能力が備わっている。カール・ポパーという哲学者はそれがある事を論証しています。彼は、人間の意識の中にあるそういう世界に「第三世界」という名前まで付けています。
<ディズニーランドで抱くリアリティ感>
このことを、私たちはディズニーランドですでに体験しています。ここで展開されるイメージ世界は、現実に対応する物的なものがない、夢の世界です。もちろん、そこにはミッキーマウスや白雪姫の人形や、シンデレラ城があります。これらは、物的な存在ですが、これは、来客の意識の中に夢の世界、純イメージ世界を形成するのを触発する道具にすぎません。触媒のようなものです。
ところが、東京ディズニーランドの中に2時間、3時間、半日といると、我々はこれにリアリティを感じていきます。「こんなものは、作り話だ」という意識を持たなくなっていきます。ということは、まるで、その世界が現実のような感覚を持っていくということです。だから、大人も、知らず知らずのうちに、楽しんで園内を歩き、乗り物などに乗ってしまうのです。
もちろん、そうでない人もいます。春平太の知人にも、「こんなものは子供だましの、作り話だ」という意識が一向に変わらない人もいます。彼は、入園してしばらくすると、「つまらない」といって帰ります。彼は、商売人です。
しかし、大半の大人は、その世界にリアリティ感を抱いていきます。そうなってもらうために、ディズニーランドは徹底した配慮をしています。たとえば、遊園地なら定番となっている観覧車は置きません。どうしてか? 観覧車で高く上がると、公園の外の世界、ビジネスビルなどが見えてしまいます。
これは物理的イメージ世界のものです。これが意識に入ってくると、来客は、純イメージ世界だけに浸っている状態から引き出されてしまいます。いわゆる、日常的現実の世界に引き戻される、というのは、その結果の状態です。そうすると、徐々に出来つつあった純イメージ世界のリアリティ感が、壊されてしまうのです。
これを逆に言いますと、こうなります。人間は一定時間、純イメージ世界に完全に浸り続けていると、意識が自ずとそれに集中していきます。その状態を続けていると、人はそれにリアリティ感を持って行くようになる、そういう風に、人間の心理は出来ているということです。
そのために、ディズニーランドを囲む塀も、内部のどこからも外が見えないような高さに作られています。がともあれ、そういう中にいることによって、我々は、ここの純イメージ世界を、「第三の現実世界」として、それを実在すると同じ感覚で心に抱き続けます。多くの人は、この公園において、そういう体験をすでにしている、ということであります。
<マズローの「欲求五段階説」>
哲学よりもうすこし身近な学問では、マズローの「欲求五段階説」心理学があります。彼は人間がいろんな欲求を満たしていった後に、最後に表面化するのは第五段階の欲求「自己実現欲求」だということを見出しました。そしてそれが充足されると人はその瞬間、至高体験を得る、と観察しました。至高体験とは、これ以上にない喜びの体験、という事です。
自己実現とは、自分が理想とする自分のイメージ(セルフイメージ)を実現する、ということです。理想とは、実現の困難なものです。通常は単なるイメージ・夢でしかあり得なかいものです。
ところがあるときこれが実現する(リアルなものになる)ことがある。すると、その瞬間、人間には自分の意識にある他のすべてのイメージ要素も驚くほどリアルなものとして感じられるようになります。いうなれば、それまで白黒だったイメージ要素が、一気に、天然色カラーに色づくという感じですね。人間の心理は、そういう風に出来ているようです。
色づくイメージ要素の中には、物理的対象を持たない純イメージもあります。単なるイメージでしかないものです。これがものすごくリアルに感じられることによって、人の意識は、物理的イメージの枠から解放されます。イメージ世界がそこから、解放され、それを超えたところにまでリアルな広がりを持つ事になります。
物理的イメージ世界は、無常の世界、すべてはいずれ死んで消滅する世界です。これから解放され、それを超えたところにまで意識が広がるという事は、純イメージ世界にまで、という事です。その世界もが物理的イメージ世界に勝るとも劣ることなくリアルに見えてしまいます。
すると、永続するイメージ世界も、リアルに感じられてしまいます。そうなると心の奥にあった切なる欲求である永続欲求も、イメージの中で現実のものとしてリアルに満たされるようになるのです。
このとき、人の心は、至高の喜びを得ます。なぜなら、一番心の奥底にあった、深い欲求、願望が満たされるのですから。そしてそのときまた、人の精神は驚くばかりの活性化をして、飛躍します。
<しるしと不思議は純イメージ世界のリアリティ感を増すもの>
イエスは、その道を教えたのです。意識世界が白黒でどちらかいえば、憂鬱だったのが、一転して総天然色カラー映像にする道を。クリスチャンはよく証し(あかし)というのをします。自分がイエスの教えを信じてクリスチャンになった前後の体験記ですね。
そこで、ほとんど定番のごとくによく聞かれるのが、このイメージ世界の天然色化の体験です。彼らは口をそろえるようにして、イエスを信じる決心をしたら突然「目に入ってくるもの、見るものすべてが新しくなった」と証言します。一見奇異なようですが、マズロー心理学からしたら、ごく当たり前の話です。
イエスは、この方法を理屈として提供するだけでなく、それを体験する手助けもいたしました。
彼は様々なしるしと不思議(奇跡)を行ったと、聖書にあります。
奇跡とは、通常の物理的世界では、あり得ない出来事です。それが現実にありうることを目の前で見ますと、人は、イエスの教える純イメージ世界のイメージも、リアルに感知することになります。
(そして、法則通りに至高の喜びを得ます。この状況は、現代ではベニー・ヒンクルセードという癒しの聖会にも見る事が出来ます。世界にテレビ放映、インターネット放映もされているこの聖会では、癒された本人もさることながら、ヒーラー説教者ベニー・ヒン自身が、そして、聴衆が至高の喜びに満たされ、歓喜している姿を我々は見る事が出来ます)
マズロー心理学理論に当てはめますと、ここではマズローのいう自己実現を、自己でなく、イエスがやってくれるという理解になります。それで、人は至高体験を経験出来るのです。そして、イエスは、その力が、イエスの教えを宣べ伝える人にも現れうるようにしていった、というのが聖書の思想です。
使徒たちは、ローマ市民の前でも、教えを述べ伝えました。そして、多くの場合にしるしと不思議も伴ったようです。それがローマ帝国の人民たちに至高体験をもたらし、イエスの教えに対する確信を深めさせていったのは、想像に難くありません。
永遠の自分がある、それを幸福なものにする事が出来る、という確信は、精神エネルギーの根源です。それは人間の心の空洞を、そのものズバリで埋めてしまいます。代替的な手段による、心理的補償作用ではない。そのものズバリです。
そして、それによる心の充実と至高の喜び(joy)が、人の人生を意識の根底において、「うつろ」から充実に転じさせ、精神を沈滞から活性化に転じさせるのです。
イエスの行った事が、いかに根源的な人間革命であったか、その構造がこれである程度ご理解いただけたと思います。この喜びが、ローマ帝国人民の心に燎原の火のごとくに広がったのです。
鹿嶋春平太です。今回、少し長いです。
前回、イエスの教えが急速に広がった理由を一口に言えば、人々の「心の芯の空洞を埋めたから」と書きました。空洞は、「人間死んでおしまいだから、究極的には生きていく意味はない、虚無である」、という漠然とした意識が形成していました。みなさんにもあるでしょう。
イエスの教えは、「永遠」という世界を持ち込む事によってここを埋めました。歴史の中で、具体的にいいますと、まず、「古代ローマ帝国」市民の心の空洞を埋めました。当時この人民の心には、この空洞がとりわけ、ポッカリと空いていたからです。
イエスの教えは、今のイスラエル地域で始められ、以後、西方のローマ帝国方面に宣教されていきました。それが、帝国人民の心の空洞を埋め、心の琴線にタッチしたのです。
この心理状況を、今回、ここで詳しく考えたいと思います。それをローマ市民に限ったことでなく、人間一般について考えてみたいと思います。その上で、当時のローマ市民には、この空洞がとりわけ明確に自覚されていた、という事を説明いたします。
<物理的イメージと純イメージ>
まず準備知識として、「物理的イメージ」「純イメージ」という言葉を説明いたします。
人間は友人とかいった物的な対象を認識する場合にも、その人の姿が写真のように、自分の目の網膜に映ったそのままを、心に描いているのではありません。それらの映像の中から、あるものを選んで残し、他の映像は切り捨てて、その人をイメージしています。
友情の念が強いときには、いい映像を組み合わせてその友のイメージを造っています。弱いとき、さらには、憎しみを持つときには、従来いい気持ちのしなかったような映像も組み合わせてイメージします。このように、我々がある対象を認識している場合、それは、目の網膜に映った映像のままでなく、それらを選択したイメージを心に造って認識し、記憶や知識を形成しているのです。
次にその映像(イメージ)には二つの種類があります。一つは、人間や自然など、外部の物的なものを網膜(や鼓膜)に受けて出来る映像です。これを春平太は「物理的イメージ」と呼びます。
もう一つは、そういう物理的な像が網膜に移らなくても、心に描いてしまうイメージです。これを「純イメージ」と呼びましょう。たとえば、ミッキーマウスや白雪姫、こういうものは物理的な世界には存在していません。けれども、ウオルト・ディズニーはそれを心にイメージし、そして、あのような形の人形やアニメキャラクターにして出現させたのですね。
@ @ @
前回、「我々は生まれて以来、五感に入ってくる物的なものを認識して世界イメージを造っている」という主旨のことを申しました。これを今述べた言葉で言いますと、人間は自然なままだったら「まず物理的イメージだけで」世界はこういうものだ、とイメージするという事であります。
そして、物理的イメージの世界では、「すべては無常であり、崩れ、消滅する」という世界観に自然になります。物的存在は、そういうものですから。
次に、「イエスは永続するもの(永遠)を持ち込んだ」といいましたね。そういうものは、物的な世界にはありません。だが、網膜に移った物理的映像を起点にしなくても、純イメージとして、人間はイメージを描く事が出来るのですね。つまり、イエスは「純イメージ」として永遠の世界のイメージを人々に提供したわけです。
<純イメージ世界の現実感について>
さて、そうすると、イエスの教えの説得力は、それをいかにリアルに感じさせるか、にかかってきます。この永遠という純イメージ世界の教えに対して、教えを聞いた人々がいかに現実感を抱くか、ということがポイントになるのです。
現実感が薄かったら、それは、心の琴線に触れません。現実感の事を英語でリアリティといいます。もしも、イエスの教える世界イメージを、物理的イメージ世界と同等に、いや、それ以上にリアルに感じる事ができたら、どうでしょか。それは、人々の心の奥底にタッチし、人を動かす事になるでしょう。
だがそもそも、純イメージが物理的イメージに勝るほどに、リアルに感じられることなどありうるでしょうか。それがあるのです。人の想像力、イマジネーションにはそういう能力が備わっている。カール・ポパーという哲学者はそれがある事を論証しています。彼は、人間の意識の中にあるそういう世界に「第三世界」という名前まで付けています。
<ディズニーランドで抱くリアリティ感>
このことを、私たちはディズニーランドですでに体験しています。ここで展開されるイメージ世界は、現実に対応する物的なものがない、夢の世界です。もちろん、そこにはミッキーマウスや白雪姫の人形や、シンデレラ城があります。これらは、物的な存在ですが、これは、来客の意識の中に夢の世界、純イメージ世界を形成するのを触発する道具にすぎません。触媒のようなものです。
ところが、東京ディズニーランドの中に2時間、3時間、半日といると、我々はこれにリアリティを感じていきます。「こんなものは、作り話だ」という意識を持たなくなっていきます。ということは、まるで、その世界が現実のような感覚を持っていくということです。だから、大人も、知らず知らずのうちに、楽しんで園内を歩き、乗り物などに乗ってしまうのです。
もちろん、そうでない人もいます。春平太の知人にも、「こんなものは子供だましの、作り話だ」という意識が一向に変わらない人もいます。彼は、入園してしばらくすると、「つまらない」といって帰ります。彼は、商売人です。
しかし、大半の大人は、その世界にリアリティ感を抱いていきます。そうなってもらうために、ディズニーランドは徹底した配慮をしています。たとえば、遊園地なら定番となっている観覧車は置きません。どうしてか? 観覧車で高く上がると、公園の外の世界、ビジネスビルなどが見えてしまいます。
これは物理的イメージ世界のものです。これが意識に入ってくると、来客は、純イメージ世界だけに浸っている状態から引き出されてしまいます。いわゆる、日常的現実の世界に引き戻される、というのは、その結果の状態です。そうすると、徐々に出来つつあった純イメージ世界のリアリティ感が、壊されてしまうのです。
これを逆に言いますと、こうなります。人間は一定時間、純イメージ世界に完全に浸り続けていると、意識が自ずとそれに集中していきます。その状態を続けていると、人はそれにリアリティ感を持って行くようになる、そういう風に、人間の心理は出来ているということです。
そのために、ディズニーランドを囲む塀も、内部のどこからも外が見えないような高さに作られています。がともあれ、そういう中にいることによって、我々は、ここの純イメージ世界を、「第三の現実世界」として、それを実在すると同じ感覚で心に抱き続けます。多くの人は、この公園において、そういう体験をすでにしている、ということであります。
<マズローの「欲求五段階説」>
哲学よりもうすこし身近な学問では、マズローの「欲求五段階説」心理学があります。彼は人間がいろんな欲求を満たしていった後に、最後に表面化するのは第五段階の欲求「自己実現欲求」だということを見出しました。そしてそれが充足されると人はその瞬間、至高体験を得る、と観察しました。至高体験とは、これ以上にない喜びの体験、という事です。
自己実現とは、自分が理想とする自分のイメージ(セルフイメージ)を実現する、ということです。理想とは、実現の困難なものです。通常は単なるイメージ・夢でしかあり得なかいものです。
ところがあるときこれが実現する(リアルなものになる)ことがある。すると、その瞬間、人間には自分の意識にある他のすべてのイメージ要素も驚くほどリアルなものとして感じられるようになります。いうなれば、それまで白黒だったイメージ要素が、一気に、天然色カラーに色づくという感じですね。人間の心理は、そういう風に出来ているようです。
色づくイメージ要素の中には、物理的対象を持たない純イメージもあります。単なるイメージでしかないものです。これがものすごくリアルに感じられることによって、人の意識は、物理的イメージの枠から解放されます。イメージ世界がそこから、解放され、それを超えたところにまでリアルな広がりを持つ事になります。
物理的イメージ世界は、無常の世界、すべてはいずれ死んで消滅する世界です。これから解放され、それを超えたところにまで意識が広がるという事は、純イメージ世界にまで、という事です。その世界もが物理的イメージ世界に勝るとも劣ることなくリアルに見えてしまいます。
すると、永続するイメージ世界も、リアルに感じられてしまいます。そうなると心の奥にあった切なる欲求である永続欲求も、イメージの中で現実のものとしてリアルに満たされるようになるのです。
このとき、人の心は、至高の喜びを得ます。なぜなら、一番心の奥底にあった、深い欲求、願望が満たされるのですから。そしてそのときまた、人の精神は驚くばかりの活性化をして、飛躍します。
<しるしと不思議は純イメージ世界のリアリティ感を増すもの>
イエスは、その道を教えたのです。意識世界が白黒でどちらかいえば、憂鬱だったのが、一転して総天然色カラー映像にする道を。クリスチャンはよく証し(あかし)というのをします。自分がイエスの教えを信じてクリスチャンになった前後の体験記ですね。
そこで、ほとんど定番のごとくによく聞かれるのが、このイメージ世界の天然色化の体験です。彼らは口をそろえるようにして、イエスを信じる決心をしたら突然「目に入ってくるもの、見るものすべてが新しくなった」と証言します。一見奇異なようですが、マズロー心理学からしたら、ごく当たり前の話です。
イエスは、この方法を理屈として提供するだけでなく、それを体験する手助けもいたしました。
彼は様々なしるしと不思議(奇跡)を行ったと、聖書にあります。
奇跡とは、通常の物理的世界では、あり得ない出来事です。それが現実にありうることを目の前で見ますと、人は、イエスの教える純イメージ世界のイメージも、リアルに感知することになります。
(そして、法則通りに至高の喜びを得ます。この状況は、現代ではベニー・ヒンクルセードという癒しの聖会にも見る事が出来ます。世界にテレビ放映、インターネット放映もされているこの聖会では、癒された本人もさることながら、ヒーラー説教者ベニー・ヒン自身が、そして、聴衆が至高の喜びに満たされ、歓喜している姿を我々は見る事が出来ます)
マズロー心理学理論に当てはめますと、ここではマズローのいう自己実現を、自己でなく、イエスがやってくれるという理解になります。それで、人は至高体験を経験出来るのです。そして、イエスは、その力が、イエスの教えを宣べ伝える人にも現れうるようにしていった、というのが聖書の思想です。
使徒たちは、ローマ市民の前でも、教えを述べ伝えました。そして、多くの場合にしるしと不思議も伴ったようです。それがローマ帝国の人民たちに至高体験をもたらし、イエスの教えに対する確信を深めさせていったのは、想像に難くありません。
永遠の自分がある、それを幸福なものにする事が出来る、という確信は、精神エネルギーの根源です。それは人間の心の空洞を、そのものズバリで埋めてしまいます。代替的な手段による、心理的補償作用ではない。そのものズバリです。
そして、それによる心の充実と至高の喜び(joy)が、人の人生を意識の根底において、「うつろ」から充実に転じさせ、精神を沈滞から活性化に転じさせるのです。
イエスの行った事が、いかに根源的な人間革命であったか、その構造がこれである程度ご理解いただけたと思います。この喜びが、ローマ帝国人民の心に燎原の火のごとくに広がったのです。
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