聖句にほぼ反射的に解釈〔教理)が出現し、伴侶・併存する事態は、聖書の冒頭部分から体験することが出来る。
『創世記』にこんな話がある~。
アダムとイブ〔エバ)は、食べるのを禁じられていた木の実、エデンの園の中央に置かれていた木の実を食べてしまった。
創造神は、イブに問う。
「おまえは、なんということをしたのか」
エバ、答えて曰く。
「蛇が私をだましたのです」
創造神は、同じ問いをアダムにも投げかける。
アダム答えて曰く。
「イブがわたしを誘惑したのです」
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こうした要旨の聖句を読むと、たとえば、こんな思い(解釈)」が人の心には浮かぶ。
「人間には、物事の責任を他者になすりつけるという罪の資質があるのだ」と。
他にも解釈は出来,教理はつくりうる。
が、とにかく、聖句の記述に教理が自然併存する様、かくのごとしだ。
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