鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

米国への無知を正す4

2015年02月08日 | 米国への無知を正す




ここまでくると、もう、米国のキリスト教のことを書かないわけにはいかくなる。

平和な世界を造り運営するといいう建設的なビジョンをフーバーらの心の中に生んでいった土壌。
後進国から吸い上げ得る国益よりも、人類が近代兵器で殺し合うことのない世界の方をより強く求める政治家が政府で優勢になっていった土壌。

こんな人間たちを生む土壌が、なぜ北アメリカ大陸の一国にできたのか。

宗教の話は難しいけれど、もう、キリスト教のことを書かないわけにはいかなくなるのだ。




だけどこれを理解して貰うのは超難問である。

佐藤優(まさる)という国際政治評論家がいる。
鈴木宗男事件のとばっちりを受け、自分も有罪判決を受けた元外務省官僚だ。

同志社大学神学部の大学院修士課程まで出て、おそらくそのキリスト教知識を期待されて外務省に採用されたと思われる人で、出獄後は売れっ子の著作者になっている。

その彼がこんなことを言っている~。

「日本では、キリスト教の知識を欠くと欧米の歴史はわからない、といわれ続けてきた。
だが、どの知識を欠くと欧米文化のどこがわからなくなるか、に適確に答えられる人は誰もいない」~と。

つまり、全日本人にキリスト教の知識がまるで暗い穴であるかのように、すっぽりと抜け落ちているというのだ。

その通りだと鹿嶋は思う。
と同時にかくいう佐藤も、鹿嶋に言わせるとキリスト教活動の根底がわかっていない、と思う。

読者を脅すつもりは筆者にない。
むしろ、誰もわかっていないから、安心せよ、といっているのだ。
安心して、虚心坦懐に鹿嶋の説明をフォローするならば、その読者はキリスト教のなんたるかが、わかってくるはずだよ~と。

まあ、そうはいっても説明は大変だ。
だが、筆者はyamamotoさんが、米国に住んで、誠実にキリスト教を手探りしておられるのフェースブックのコメント欄でをみて、敢えてエネルギーを注いでみる気になった。
この方一人だけでもわかってくださればいい、と思って書くことにした。

この話は長くなる。
そこで、今回はキリスト教のアメリカへの影響をみるための、予備知識となる。




<まず教科書の分類を放念>

読者にはまず、これまで学んできたキリスト教活動の教科書的分類を放念してほしい。
従来、教科書に限らず、専門書においても、キリスト教会は根底的にカトリックとプロテスタントとに分けられると説明されてきた。
だがそれは後述するように、浅薄で表面的な知識だ。

鹿嶋は敢えていう。
キリスト教活動は、根底では聖句主義方式と教理主義方式とに分けられるべきものなのだ。
この知識を持たないと、キリスト教理解は根無し草になる~と。




<聖句主義と教理主義>

まず言葉だけにでも目を慣らしておこう。
キリスト教活動とは教典である聖書を解釈し、学んでいく活動だ。
そのやり方には二つある。

一つは、個人の聖書解釈を自由にし、数人のサークルで相互吟味させ、合意できる解釈をみだしていくというものだ。
この行き方を聖句主義という。
細部は後に述べる。
今は、名前を覚えて欲しい。

第二は、教会の指導者たちが「正しいと思う解釈」を一つ造り、これを一般信徒に学ばせていく方法だ。
これを教理主義という。
これもまずは名前だけを覚えておかれたい。




<「初代教会」の開始>

キリスト教会はイエスの直接の弟子たちの元に、多くの人々が集まることによって始まった。
イエスがいなくなった後、その約束通り弟子たちに、病の癒やしをはじめ様々な奇跡が現れた。
驚き集ってきた人々に、弟子たちはその理由を聖書(当時は旧約聖書)を解き明かす形で示した。

弟子たちは、参集した人々を数人からなる小サークル(これをスモールグループという)にわけた。
リーダーを選ばせ、その一人の家で聖書の自由吟味会を続けさせた。
(後年これが「家の教会」と呼ばれるようになる)

教会全体の一体性は、リーダー間の任意連携によって実現された。

こうして始まった史上最初の教会は初代教会と呼ばれる





<聖句主義>

初代教会では、活動は聖句主義方式で行われた。
もっともこの名は後年後継者たちが呼ぶようになっていくもので、初代教会ではそんな風に自覚することなく活動は行われた。

聖句主義は英語ではBiblicism(バイブリシズム)という。
鹿嶋がそれを聖句主義と邦訳しているのである。

バイブリシズムの「イズム」というのは、「~を上位に置く」という意味の接尾語である。
バイブリック(Biblic)というのは、「聖句的」「聖句に照らして」という意味である。
聖句に最終権威をおき、いかなる解釈よりもそれを「上位に置く」からバイブリシズムなのである。





<教理主義>

他方、教理主義は英語ではCreedalismないしはDoctrinismである。
教理とは解釈の別名だから、言葉の上からすると「聖句の一解釈を聖句そのものより上位に置く」活動方式となる。

だが、キリスト教史ではこの言葉は、もう少し具体的に「ある教団本部の高名な職業僧侶や権威筋が作成した解釈」という意味になる。
これを聖句よりも実質上上位に置くという意味で、教理主義なのである。

+++

この方式が出現する事情は次の如しだ。

聖句というものは深く多様な中身を持っていて、教会の全員が納得するような単一の解釈に至ることは容易ではない。
それ故、解釈を素人の信徒に自由にやらせていたら、教会がバラバラになってしまうという懸念も出る。
それが、解釈を教団本部の権威筋のものに統一して活動しようというアイデアを産む。
これに則ってやるのが教理主義教会だ。

解釈の統一は実際上、教理を聖句の「上位に置いてしまう」ことによって実現する。
そこで、この行き方は教理主義となるわけだ。

+++

教理主義教会は初代教会より100年以上後になって出現している。
現在この方式をとる教会は、米国では北部において多数派を占めている。

対照的に、聖句主義方式の教会は南部において圧倒的な多数派となっている。





<解釈自由の原則とスモールグループ>

聖句主義教会では「個人の聖句解釈自由」の原則で活動する。
一つの解釈に最終権威を与えることをしなければ、必然的にそういうことになる。
解釈自由にすると個々人は、思いっきり深く広く聖句を吟味することができる。

それでも、教会員たちが各々が全く勝手放題に聖句解釈し教会がバラバラになるようなことは実際には起きない。
彼らは数人の聖句吟味グループをつくって活動する。
「聖句には各々究極の真理がある」という信頼と期待を共有して吟味をおこなう。

すると実際には合意・共有できる解釈も出てくるのだ。
そしてそれを積み重ねていくことによって、聖書の世界観の大枠は合意されていく。

もちろん細部での違いは出る。
聖句主義者たちはその違いを尊重してグループとしての結論を出さない。
そしてその吟味を次の課題として残す、という方法をとる。

直感的な話だが、教会の組織形態を見ると、聖句主義者の教会組織はスモールグループが連携したバレン型になる傾向を持つ。
「初代教会 = 聖句主義教会=バレン型教会」という感じだ。




<教理主義教会はピラミッド型>

対照的に、教理主義教会の組織はピラミッド型だ。
こちらはプロの聖職者が階層を形成して一般信徒を統率管理する。
その代表がカトリック教会で、管理階層は上から、大司教、司教、司祭だ。
後にこれに教皇(法王)という絶対権者が付け加えられる。

これは、社長、部長、課長と言った管理階層をもつこの世の会社などの組織と同じだ。
だからこちらは「カトリック教会=教理主義教会=ピラミッド型教会」という感じにでもなろう。




<プロテスタントはカトリックから分派したもの>

プロテスタント教会は、ず~と後の16世紀になって、カトリックから分派した教団である。

1517年にカトリック僧侶だったマルチン・ルターは、教団の改革運動を起こした。
当時、カトリックは法王(教皇)という絶対権者を教団の頂点に据えて教団運営をしていた。




ルターは、教皇などという存在は聖書的根拠を持たない、と指導層を批判した。
宗教改革を起こし、教皇抜きの教団を開始した。
これがルター派教会で、ドイツから北欧地域に広がった。

後にカルバンも法王を持たないカルバン派教会を造っていった。
こちらはスイスを拠点とし、オランダ、イギリス、フランスに広がった。
スイスのカルバン派は改革派と呼ばれ、オランダのそれはオランダ改革派、イギリスのそれは長老派、フランスのそれはユグノー派と呼ばれた。



プロテスタントとは「抗議するもの」という意味である。
つまり彼らはカトリックの中にいて、カトリック指導層の教団運営に抗議し、カトリック改革を行ったのだ。

その結果出来た法王のないカトリック的教会がプロテスタント教会なのである。
こういう、十数世紀も後に派生したな教団が、キリスト教活動の一方の根底になるわけがない。

たとえば両者とも教理主義教会だ。
いわゆる宗教改革運動は本質的に、教理主義教団の中で起きたコップの中の嵐なのだ。

ルターもカルバンも、カトリック教団のとる教理主義方式については、何の疑問も持たなかった。
これだけでもう、カトリック、プロテスタントという類型が活動の根底を示さないことがわかる。




この教理主義教会の他方の極に聖句主義教会があるのだ。

キリスト教の影響を見るときには、この教理主義教会か聖句主義教会かという点が決定的に重要になる。
今回の知識を用いて、次回にそれを語ろう。


(続く)






コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 米国への無知を正す3 | トップ | 米国への無知を正す5 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

米国への無知を正す」カテゴリの最新記事