~~本日も「鹿嶋春平太チャーチ」にようこそ。
斉藤さん、というかたから、Vol.2「門前活動に留まってしまう」についてのコメントをいただきました。
読みやすくするために、本文の方に表示させていただきます。
ご本人からの了承を得ています。
理屈っぽい話が続きますので、読む人なんかいないのではないか、と懸念しておりました。読んでくださっている方がおられると知って、ほっとしました。
春平太先生
ついて行くだけで息を切らせていますが、読んでいることを知ってもらうため、たまには感想ぐらい書くようにします。
”証しゴッコ”と言い表されていますが、これ、強烈ですね。なんとなく、教会の実情が想像できてしまう気がするのです。
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もともと、わたしは、”あかし”というのは、洗礼の儀式で行われる、大学で言えば卒論発表にあたるようなものだと思っていました。
研究者の道を歩む人なら、卒論は、研究の出発点でして、ゴールではありません。 それと同じく、受洗することは、どう考えても信仰のゴールではなくスタートなのですから、それ以降は、ゴールを目指して進まねばならないはずです。
ところが、自分がスタートしたあと、すぐ観客席に戻って後続の人たちがスタートするのを観戦したり、あるいは、次の人が無事にスタートできるためのお手伝いに走り回ったりしていたらどうなるでしょうか。
なんだか滑稽を通り越した図式ですが、本人は、決してふざけているわけでなく、大真面目でやっているだけに笑う気にはなれないのです。
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ある人から聞いた話を思い出しました。
冗談かどうかわからないのですが、死ぬ間際になってから、病床洗礼を受けて、人生の一発逆転を狙うような考えの人がいるそうです。
もしも、受洗することを、あたかもゴールだと考えてしまうなら、それで何の問題もないことになります。
もしかして、洗礼を受けられた周囲の方々のその後の様子を見て、これだったら後回しにしてもかまわないだろうと思われたのかもしれませんね。
~~う~ん、この最後の一文も、鹿嶋に劣らず強烈だなあ・・・(春平太)。
日本の多くの教会において、「証し」は信じて受洗した時のものを歌手の「一発ヒット曲」のようにその後何年も語り継いでいく傾向にあるように思います。
一部の教派においては、救いをうけた後の「聖霊のバプテスマを受けた証し」や「癒しの証し」等がみられますが、現状ではこれらを堂々と証しするのは、牧師さんに遠慮してむずかしいのではないのでしょうか?
そこで救われた後の証しは、教会内での活動をとおしてのものや、日常生活において「神を意識した出来事」などのあたりさわりのないものが中心になっているように思います。これらのものは「証しをするための」証しのようなものも多く、「神は付け足し」のようです。
救いを受けた後、牧師さんを含めて、何を追及したらよいのかわからず、社交サロン化してしまっている教会が多いのではないのでしょうか?
私自身、未信者だった頃、罪責感の中で苦しそうに祈っている先輩方を見た時、「救われるのは死ぬ間際でいいや~」と思ったものでした・・・(苦笑)。
私が勤務していた大学の学生さんだったようです。
そしてクリスチャンになり、教会に通っておられました。
ところがあるとき、この方は、聖霊のバプテスマを受けてしまわれました。
そうしたら、教会で成されること、説教の「世的」なることが、突然見えてきてしまったのですね。
その段階でなされたのが、上記のコメントです。
それほどに、聖霊のバプテスマを受けるかどうかは、福音の奥義を〈霊的に)悟るための、決定的にして不可欠な出来事になります。
これをいうと、一般の来訪者の方々が無力感を感じてしまわれるのではないかと、なるべく言わないようにしてきました。
だが、実際、そうなんですね。
本格的に語り始めました。
SNS「聖句主義クラブ」においてです。
くりまんさん、もし、これ読まれたなら、ご参加下さい。