=聖句=
「天からのパンを与えたのはモーセではありません。天からのまことのパンを与えるのは、私の父(創主)なのです」(6章32節)。
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イエスはパンと魚を次々に出現させて、5千人に食べさせました。
そうしたら、人々は食物を求めてイエスを追いかけるようになりました。
だが、イエスは彼らを食べさせ続けることを、しませんでした。
群衆が空腹を充たしたいこと、そんなことはイエスは百も承知しています。
けれども、それを繰り返し充たしていくことは、イエスがこの世に送られた主目的ではないのです。
この世での物的な豊かさも、人間に大切でないことはないのだけれど、それは二番目に大事なことだ。まず、霊が幸福になるようにしてしまうことが、先決なのだ。その道に導くのが、イエスの主目的なのでした。
そこでイエスは、かまわず本題に入ります。
「天からのパンを与えたのはモーセではない。天からのまことのパンを与えるのは、私の父(創主)なのである」(32節)
~~~と。ここは、少し説明が必要なところです。
イエスのこの言葉には、飛躍があるのです。間の説明(中間項)を飛ばして話しています。いま、そこを埋めてみますね。ヨハネ伝「解読(講解)」ですからね。
<「出エジプト記」を踏まえている>
「天からのパンを与えたのはモーセではない」とありますね。
このパンとは旧約聖書に出てくるマナという食べ物のことです。旧約の「出エジプト記」という書物の16章に創主が天からパンを降らせたという記述があります。
エジプトから脱出してカナンの地に向けて荒野を旅するイスラエル人に、創主がパンを与えたという一件がそれです。それを、イエスの時代の民衆はモーセが働いて与えてもらったと理解していたようです。だから、イエスは「モーセではないんだよ」といったのでしょう。
実際、これについては、モーセは祈り求めてはいません。創主が一方的に与えたという状況が記述されています。
民衆がモーセたちに不平を言った。それを見た創主が、天からパンを降らせた。それをイスラエル人はマナと名付けた~~と旧訳聖書にはあります(出エジプト記、16章31節)。
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