『日本神話と古代国家』(直木孝次郎著、講談社学術文庫)は、著者の1960年代から80年代までの論考をまとめたものだが、その姿勢や論調は一貫している。
「古事記」と「日本書紀」、いわゆる記紀神話が、古代の天皇を中心とする体制によって編集され、改竄され、作為が加えられた物語であること、神武天皇以降の初期の天皇が虚構であること、さらには明治以降に神話教育が強制されてきたことに、本書の大半の頁が費やされている。その指摘は執拗をきわめる。
もっとも、現在では神話の歴史上の位置づけは、かなりベールがはがされていると見てよいのだろう。だからといって神社が必要とされないわけではないことが、面白いところだ。日本国憲法と同様、民衆により作られたものでなくても、ある程度は民衆の間に根付くということか。
国による神話の確立という面でみたとき、そのエポックはおそらく次の4つの時期であろう。
●主に天武天皇・持統天皇による、天皇制確立のための日本神話の創生
これが津田左右吉からはじまる学説の核である。
『アマテラスの誕生』(筑紫申真著、講談社学術文庫)にも
引き継がれているようだ。
●明治新政府による、国づくりのための天皇制の復権
近代国家への変身のために、天皇が再び国家の中心に据えられた。
国民への受容のため、明治大帝の御真影というメディア・ミックス政策が効を
奏したわけである。 『天皇の肖像』(多木浩二著、岩波現代文庫)に詳しい。
※なお、御真影はフォクトレンダーのヘリアーで撮影されたとか。
●昭和軍事政権による、日本を神国とする妄想
言うまでもない話。
●そして現在?
本書によると、森鷗外による1912年の作品『かのように』では、神話を事実でないとする「不敬」を恐れた主人公が、「これまでそうであるとされてきたことは、かのように、荒立てずにおこう」と考える。弾圧を恐れた判断停止である。
さて、現在の教育基本法改正による「体制に楯突かない国民、戦争にも協力する国民」への志向に、似たようなマインドが感じられて仕方がない。教育方針も、国旗も、国歌も、イラク派兵も、沖縄の米軍基地も、「かのように」考えろということだから。国旗や国歌が問題というのではなく(問題だが)、「うるさいことを言うな」というあり方が問題なのだ。
日本ファシズムの復活だと中国や韓国が主張することは、決して国際政治上の戦略でも杞憂でもないのではないか。
戦前に出版を差し止められた津田左右吉、神話を体制による物語だとした家永三郎、そしてこの著者の反骨精神には、偏見を抜きにして学ぶべきことがある。大げさな話ではなく、日常の心の持ちようの問題である。
「古事記」と「日本書紀」、いわゆる記紀神話が、古代の天皇を中心とする体制によって編集され、改竄され、作為が加えられた物語であること、神武天皇以降の初期の天皇が虚構であること、さらには明治以降に神話教育が強制されてきたことに、本書の大半の頁が費やされている。その指摘は執拗をきわめる。
もっとも、現在では神話の歴史上の位置づけは、かなりベールがはがされていると見てよいのだろう。だからといって神社が必要とされないわけではないことが、面白いところだ。日本国憲法と同様、民衆により作られたものでなくても、ある程度は民衆の間に根付くということか。
国による神話の確立という面でみたとき、そのエポックはおそらく次の4つの時期であろう。
●主に天武天皇・持統天皇による、天皇制確立のための日本神話の創生
これが津田左右吉からはじまる学説の核である。
『アマテラスの誕生』(筑紫申真著、講談社学術文庫)にも
引き継がれているようだ。
●明治新政府による、国づくりのための天皇制の復権
近代国家への変身のために、天皇が再び国家の中心に据えられた。
国民への受容のため、明治大帝の御真影というメディア・ミックス政策が効を
奏したわけである。 『天皇の肖像』(多木浩二著、岩波現代文庫)に詳しい。
※なお、御真影はフォクトレンダーのヘリアーで撮影されたとか。
●昭和軍事政権による、日本を神国とする妄想
言うまでもない話。
●そして現在?
本書によると、森鷗外による1912年の作品『かのように』では、神話を事実でないとする「不敬」を恐れた主人公が、「これまでそうであるとされてきたことは、かのように、荒立てずにおこう」と考える。弾圧を恐れた判断停止である。
さて、現在の教育基本法改正による「体制に楯突かない国民、戦争にも協力する国民」への志向に、似たようなマインドが感じられて仕方がない。教育方針も、国旗も、国歌も、イラク派兵も、沖縄の米軍基地も、「かのように」考えろということだから。国旗や国歌が問題というのではなく(問題だが)、「うるさいことを言うな」というあり方が問題なのだ。
日本ファシズムの復活だと中国や韓国が主張することは、決して国際政治上の戦略でも杞憂でもないのではないか。
戦前に出版を差し止められた津田左右吉、神話を体制による物語だとした家永三郎、そしてこの著者の反骨精神には、偏見を抜きにして学ぶべきことがある。大げさな話ではなく、日常の心の持ちようの問題である。