Sightsong

自縄自縛日記

『ヒロシマナガサキ』 タカを括らないために

2007-08-01 23:39:59 | 中国・四国

岩波ホールで、『ヒロシマナガサキ』(スティーヴン・オカザキ、2007年)を観た。

アメリカ映画である。だから、米国の当時のニュース映画やテレビ放送、そして原爆投下時と投下後の記録フィルムが使われている。知ったかぶりはしたくないので言うが、被爆者の映像は相当に衝撃的だ。これを自分の家族に置き換えて考えると、おそらく誰もが感情の何かの閾値を超える。

私にとっての広島・長崎は、最初は小学校の図書館で見た記録写真集だった。黒焦げになった死体や、お握りを持って呆然と佇む子どもがいた。次は、中学校においてあった、中沢啓治の『はだしのゲン』をはじめとする漫画全集だった。この映像は、それらを超えるとは言わない。事実の重さは、その記録が如何に凄惨かというレベルではかられるものではない。そうではなく、自分にとってのこれまでの体験と同じくらいの重さが、この映画にあった。

その中沢啓治も映画に登場する。米国に恨みはないこと、守らなければならない憲法をもらったことを淡々と語る。被害者でありながら、である。

パンフレットに佐藤忠男が寄稿した文章には、こうある。

しかしこの「ヒロシマナガサキ」に見る被爆者たちのおちついた態度と表情、やさしく内省的な語り方などが示しているのは、問題は反米というような次元にあるわけではないことをはっきりと示している。
(略)
この被爆者の方々の美しい表情が、原爆についての反省なんかするもんかと力んでいるアメリカ人たちの一部のかたくなな心を柔らかく押し開く力になることを私は切に望む。

映画のなかで使用されるニュース映像におけるトルーマン大統領や戦勝に沸く米国民たちの心には、おそらく「人間」ではなく抽象的な「日本」というもののみがあった。また、当時の原爆投下体験を振り返るエノラ・ゲイのパイロットたちの心にも、いかに贖罪の気持ちがあったとはいえ、「人間」よりも「抽象」よりの傾向があるように思えた。そして、映画を観たり原爆について語ったりする私たちも、いかにしても、「抽象」、つまりタカを括った考えをしてしまうことは回避できないと感じる。だからこそ、一人一人の声に耳を傾けなければならないのだと思う。

『ひめゆり』、それから『ヒロシマナガサキ』、他の人にも「タカを括る」前に観て欲しい。いまの日本の政治が、どれだけ「タカを括った」ものであるかを改めて認識する。「タカを括る」とは「人をナメる」とも言う。