Sightsong

自縄自縛日記

終戦の日に、『基地815』

2007-08-15 23:56:20 | アート・映画
神田小川町のneoneo坐で、特集上映『基地815』を観た。
上映作品は、亀井文夫『流血の記録 砂川』(1956年)と、小林アツシ『基地はいらない どこにも』(2006年)の2本。

『流血の記録 砂川』は、立川市砂川の米軍基地拡張に反対する砂川闘争(1955~56年)を記録したものだ。結果的には反対が実り、基地拡張はなされない。その後、米軍立川基地は横田にシフトするものの、跡地の一部が自衛隊の立川駐屯地となっている。つまり、歴史としてみれば、米軍基地拡張は阻止したが、なぜか自衛隊に変身しているという、日米の軍がお互いを利用しつつ発展する構図が見えるわけだ。

また、米軍用地特措法、つまり米軍に基地を提供するための仕組みは、日米安保条約が発効した1952年に制定されている。砂川での利用以来、30年の休眠を経て、80年代に沖縄の反戦地主・契約拒否地主の土地を強制使用するために眼を覚ますことになる。95年の米兵による少女暴行事件を契機に、太田知事(当時)が土地の強制利用に抵抗したため、その後自治体が関与できない改悪がなされている。(新崎盛暉『基地の島・沖縄からの問い―日米同盟の現在とこれから』(創史社) →感想

すなわち、50年以上前のことでありながら、問題の構造は現在につながっている

映像を観て違和感を覚えたのは、警官隊のあからさまな暴力(棍棒で農民を殴っている!)、それから国会議員たちの身体を張った抵抗ぶりだった。おもに社会党(当時)の議員たちが何人も、タスキをかけて、本当の暴力に身を晒している。警官隊も議員を地面に叩きつけているのが凄まじい。

先日の参院選での勝利後に、山内徳信さんと糸数けいこさんが辺野古をすぐに訪れ、いい意味で国会議員の地位を基地建設反対のために活用していることも思い出される。しかし、この映像ではそのような議員が何人も登場してくるのだ―――与党が転んで得をしたのは第一野党のみという、悪しき二大政党化のためか、基地を問題として動く人が当時とくらべて少なくなっているからか。

もっとも、砂川闘争に参加した議員たちがどのような考えでいたのか、ここでは示されていない。また、そもそも反対する人々がそれぞれどのような考えでいたのかというより、皆が同じ考えを共有し、運動として盛り上がったような平板で単純な描写にみえた。端的にいえば、記録としては非常に興味深かったが、映画としては決して傑作ではない。

亀井文夫は、戦時中に国策映画として『戦ふ兵隊』を撮りつつも、形式ではなく中身や描写から厭戦的なものを感じた陸軍省に上映禁止にされてしまう。佐藤真は、のちの『流血の記録 砂川』などの反戦映画よりもこのほうを映画的に優れていると評価している。国策映画という制約があってこその表現の力を、『戦ふ兵隊』にみているわけだ。(佐藤真『ドキュメンタリー映画の地平 世界を批判的に受けとめるために』(上)、凱風社、2001年)

『基地はいらない、どこにも』を観るのは2回目だ(→以前の感想)。沖縄だけでなく、相模原、座間、横田、岩国、鹿屋など、この映画の抱える範囲は広い。だから、再度観たことでいろいろと再確認できた。

岩国では、沖合に滑走路を移転して騒音と危険性を軽減するはずが、ただ基地を拡張する結果になってしまう。そして住民投票で基地拒否の意思を示し、さらに厚木の空母艦載機を受け容れないといったら、市庁舎建設の予算をストップされている。もうどうしようもなくあからさまな「アメとムチ」、「見せしめ」だが、やはり問題のひとつは全国メディアがそれほど問題を取り上げて世論を形成することに役立っていないことだろうか。

映像では、岩国の住民投票前に、タクシーの運転手が「地元にカネが落ちてくるんじゃない?」と賛意を示し、中年の女性が「政府のやることだから、もう反対してはいられない。ただ岩国の人が馬鹿にされるから住民投票は反対票を入れる」と微妙なことを言っている。叶わない期待、市民よりオカミを優先する発想、そして基地依存経済という脱却しにくい構造。いたたまれない気分になる。

終わった後、小林アツシさんと何人かの観衆で飲み食いしながら、1960年代の『サイボーグ009』(白黒)のなかから「太平洋の亡霊」を観た。戦争の教訓を活かさない米国に対して、日本軍が亡霊となって甦り、攻撃を始めるというストーリーだった。破天荒ではちゃめちゃだが、いま、このような作品を一般の子供向けアニメで作ることは難しいに違いない。