昨日は飛行機で福岡、それから夕方に仙台、今晩帰京。飛行機の窓から皆既月食を見ることはできなかった。
それにしても、仙台の居酒屋「一心」は旨かった。つき出しがいきなりぼたん海老、鮪、帆立の刺身。ホヤとコノワタを凍らせて和えた「ばくらい」、うにを混ぜた衣で揚げた蛸、イカの塩辛、穴子の揚げだし豆腐、それから地元の日本酒。また行きたいぞ。
==========
移動時間が長かったので、『差別と環境問題の社会学』(桜井厚・好井裕明編、新曜社)を読んだ。個人的に関連した問題意識でもある屠場について書かれていたからだ。しかし、その問題は他の個別問題の底に流れているものでもあった。
ここでとりあげているのは、被差別の生活環境史、屠場をめぐる視線の特徴、阪神・淡路大震災をめぐる報道における「」という空洞、障害者からみた都市のバリアとその背景、フェミニズムと環境、途上国への公害移転とその背後の考え、森林破壊における差別的構造、アボリジニーという社会的存在と差別、などだ。
共通して見えてくる面はいくつもある。そのひとつは、広く環境問題やそれに関連する差別問題を見たとき、受益者と受苦者との間を隔てるものがあるということだ。
●屠場や化成場、再生資源処理業、自動車解体業など「迷惑施設」とされてきた場所が、地域的にも「周縁」に存在してきたこと。
●地域的な立地だけでなく、屠場の存在が学校教育から排除され「見ているのに脳での処理後は見えていない」こと。
●震災被害と関連する問題が報道において回避・隠蔽され、メディアを通じた市民の視野において「見ているつもりなのに蓋の存在に気がつくことができない」こと。
●障害者の立場にならないと見えてこないこと。例えば多くの信号は歩行時速3.6km以上を想定しているが高齢者の場合3kmを切る場合があったり、踏み切りを渡りきるためには時速4.8kmで歩行しなければならない場所があったり。
●環境ホルモンの受苦者が男になってはじめて社会問題化するなど、「見るという行為をはなから実践しない」こと。
●国境をまたぐ場合には、受益者には受益/受苦の関係自体が意識されにくいなど、「見るべき方向がさまよう」こと。
つまり、直接的、間接的に関与する者の視線がしっかりしたものであればよい、という結論には落ち着かない。知識やユマニスムの前提となるものは、教育とマスメディアである。ここに歪みや公平さの欠落があったとしたら、私たちはそのたびに指摘をしなければならない。沖縄の基地問題・環境問題などが、報道的に無価値かといえば全くその逆であるにも関わらず、その問題自体に気がつかないふりをし続けている大手メディアのあり方にも共通するところがあるだろう。
本書では、個人の努力だけでどうにもならない、と諦めているわけではない。曖昧に避けて通ってきたことを直視すること、差別の前提にある考え方を問うていくことが指摘されている。
水俣病の被害者に対する視線の背後にある意識について、平岡義和氏はこのようにまとめる。「社会全体のことを考えれば、ある程度の犠牲が生じるのはやむをえない。被害を受ける人のことを配慮しようとすると、全体がうまくいかなくなってしまう。だから、全体のことを考えて我慢すべきだ。」 また、途上国への公害移転について論理構造を同じものとし、このようにも指摘する。「被害が不可視であれば、加害者ないし受益者は、被害の深刻さを意識しないですむ。となれば、あまり罪悪感を持たずに、経済成長のためには少々の犠牲はやむをえないという正当化の意識を抱きやすい。」
これはまさに、原子力発電の問題(発電所近くの人々のことを考えず電気を享受する私たち)、沖縄の基地問題(遠いし見えない・見なくても生活できるから安全保障のために受苦してもらってよいとする考え)、バリアフルな都市の問題(自分は問題を感じないので税金でバリアフリーな歩道を作ることはおかしいとする考え)、などに共通する意識だろう。
個々が自分で考えることは勿論必要だが、この大きな社会で、あえて見ないようにする教育や、一部を見せないで全部を見せているふりをするマスメディアの責任は重いと痛感する。
好井裕明氏は結語で指摘する。
「地球の声が聞こえる。地球に優しく。自然を守ろう。人間の身体が大切、等々。エコブームの言説が世の中に充満している。これはいわば環境問題への一般的な配慮を要請するものだ。それこそ誰もができる優しいメッセージとして日常に軟着陸する。たしかに配慮は必要だろう。しかしそれは「環境問題=配慮の問題」という一般的な枠を日常に浸透させはするが、環境問題の根底に流れる差別を向き合い、その視点から自分の暮らしを批判的にまなざしていく可能性を私たちから”優しく”奪っていく配慮でもある。なぜなら、一方で個別問題に関連する差別の様相が、たとえばマスコミなどで十分に語られることはまず、ないからだ。」
それにしても、仙台の居酒屋「一心」は旨かった。つき出しがいきなりぼたん海老、鮪、帆立の刺身。ホヤとコノワタを凍らせて和えた「ばくらい」、うにを混ぜた衣で揚げた蛸、イカの塩辛、穴子の揚げだし豆腐、それから地元の日本酒。また行きたいぞ。
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移動時間が長かったので、『差別と環境問題の社会学』(桜井厚・好井裕明編、新曜社)を読んだ。個人的に関連した問題意識でもある屠場について書かれていたからだ。しかし、その問題は他の個別問題の底に流れているものでもあった。
ここでとりあげているのは、被差別の生活環境史、屠場をめぐる視線の特徴、阪神・淡路大震災をめぐる報道における「」という空洞、障害者からみた都市のバリアとその背景、フェミニズムと環境、途上国への公害移転とその背後の考え、森林破壊における差別的構造、アボリジニーという社会的存在と差別、などだ。
共通して見えてくる面はいくつもある。そのひとつは、広く環境問題やそれに関連する差別問題を見たとき、受益者と受苦者との間を隔てるものがあるということだ。
●屠場や化成場、再生資源処理業、自動車解体業など「迷惑施設」とされてきた場所が、地域的にも「周縁」に存在してきたこと。
●地域的な立地だけでなく、屠場の存在が学校教育から排除され「見ているのに脳での処理後は見えていない」こと。
●震災被害と関連する問題が報道において回避・隠蔽され、メディアを通じた市民の視野において「見ているつもりなのに蓋の存在に気がつくことができない」こと。
●障害者の立場にならないと見えてこないこと。例えば多くの信号は歩行時速3.6km以上を想定しているが高齢者の場合3kmを切る場合があったり、踏み切りを渡りきるためには時速4.8kmで歩行しなければならない場所があったり。
●環境ホルモンの受苦者が男になってはじめて社会問題化するなど、「見るという行為をはなから実践しない」こと。
●国境をまたぐ場合には、受益者には受益/受苦の関係自体が意識されにくいなど、「見るべき方向がさまよう」こと。
つまり、直接的、間接的に関与する者の視線がしっかりしたものであればよい、という結論には落ち着かない。知識やユマニスムの前提となるものは、教育とマスメディアである。ここに歪みや公平さの欠落があったとしたら、私たちはそのたびに指摘をしなければならない。沖縄の基地問題・環境問題などが、報道的に無価値かといえば全くその逆であるにも関わらず、その問題自体に気がつかないふりをし続けている大手メディアのあり方にも共通するところがあるだろう。
本書では、個人の努力だけでどうにもならない、と諦めているわけではない。曖昧に避けて通ってきたことを直視すること、差別の前提にある考え方を問うていくことが指摘されている。
水俣病の被害者に対する視線の背後にある意識について、平岡義和氏はこのようにまとめる。「社会全体のことを考えれば、ある程度の犠牲が生じるのはやむをえない。被害を受ける人のことを配慮しようとすると、全体がうまくいかなくなってしまう。だから、全体のことを考えて我慢すべきだ。」 また、途上国への公害移転について論理構造を同じものとし、このようにも指摘する。「被害が不可視であれば、加害者ないし受益者は、被害の深刻さを意識しないですむ。となれば、あまり罪悪感を持たずに、経済成長のためには少々の犠牲はやむをえないという正当化の意識を抱きやすい。」
これはまさに、原子力発電の問題(発電所近くの人々のことを考えず電気を享受する私たち)、沖縄の基地問題(遠いし見えない・見なくても生活できるから安全保障のために受苦してもらってよいとする考え)、バリアフルな都市の問題(自分は問題を感じないので税金でバリアフリーな歩道を作ることはおかしいとする考え)、などに共通する意識だろう。
個々が自分で考えることは勿論必要だが、この大きな社会で、あえて見ないようにする教育や、一部を見せないで全部を見せているふりをするマスメディアの責任は重いと痛感する。
好井裕明氏は結語で指摘する。
「地球の声が聞こえる。地球に優しく。自然を守ろう。人間の身体が大切、等々。エコブームの言説が世の中に充満している。これはいわば環境問題への一般的な配慮を要請するものだ。それこそ誰もができる優しいメッセージとして日常に軟着陸する。たしかに配慮は必要だろう。しかしそれは「環境問題=配慮の問題」という一般的な枠を日常に浸透させはするが、環境問題の根底に流れる差別を向き合い、その視点から自分の暮らしを批判的にまなざしていく可能性を私たちから”優しく”奪っていく配慮でもある。なぜなら、一方で個別問題に関連する差別の様相が、たとえばマスコミなどで十分に語られることはまず、ないからだ。」