昨年から気になっていた、仲里効『フォトネシア 眼の回帰線・沖縄』(未来社、2009年)をようやく読む。
比嘉康雄、比嘉豊光、平敷兼七、東松照明、平良孝七、石川真生、大城弘明、嘉納辰彦。それぞれの抱えるものと生み出す写真、そして相互の影響とそのねじれが語られてゆく。当然、出身地や沖縄返還、基地による歪みは、ありようは異なれど、それぞれの写真家に少なからぬ影響を及ぼしている。著者は、それを感傷的に過ぎるのではないかというほどのスタンスで、批評を展開している。
ヤマトゥから来た余所者・東松照明に関して、そのことによる視線が交錯し続けている。私にとっても、東松照明の写真には、懐に入りはしてもどこか距離を置いたドライなものを感じさせられている。
もっとも、東松照明の沖縄に対する思いはひときわ真摯であったように思われる。
「いま、問題となっているのは、国益のためとか社会のためといったまやかしの使命感だ。率直な表現として自分のためと答える人は多い。自慰的だけどいちおううなずける。が、そこから先には一歩も出られない。ぼくは、国益のためでも自分のためでもないルポルタージュについて考える。
被写体のための写真。沖縄のために沖縄へ行く。この、被写体のためのルポルタージュが成れば、ぼくの仮説<ルポルタージュは有効である>は、検証されたことになる。波照間のため、ぼくにできることは何か。沖縄のため、ぼくにできることは何か。」(『カメラ毎日』1972年4月号所収「南島ハテルマ」)
『フォトネシア』において興味深いのは、東松照明が沖縄から文化のグラデーションを<アンナン>に見ていたという指摘である。安南、東南アジアへのクロスボーダーである。ヤマトゥの原郷を沖縄に見出そうとした柳田國男らの<南島イデオロギー>とは似て非なるものだ。東松は偉大な思想家でもあった。
そしてこの南方との(南方からの、でも、南方への、でもない)クロスボーダーの視線が生まれたころ、東松照明の写真がモノクロからカラーへと変化している。写真家本人は、このとき、ヤマトゥからも米国からも離脱したのだという。これはどういうことだろう。
●参照
○『LP』の「写真家 平敷兼七 追悼」特集
○「岡本太郎・東松照明 まなざしの向こう側」(沖縄県立博物館・美術館)
○平敷兼七、東松照明+比嘉康雄、大友真志
○沖縄・プリズム1872-2008
○東松照明『長崎曼荼羅』
○東松照明『南島ハテルマ』
○石川真生『Laugh it off !』、山本英夫『沖縄・辺野古”この海と生きる”』
○仲里効『オキナワ、イメージの縁』
○村井紀『南島イデオロギーの発生』