パリ、ロンドン、ブリュッセル、デュッセルドルフ、マドリッドと、しばらく西欧をまわってきた。12日間で5都市だからかなりのハードスケジュールである。
行きの便では、スラヴォイ・ジジェク『ロベスピエール/毛沢東 革命とテロル』(2008年、河出文庫)を読む(結構手こずり、読了したのは寒くて出られないドイツのホテルだった)。
膨大な引用と過剰なレトリックの割に、ジジェクが時に放つメッセージは拍子抜けするほど凡庸である。また、時折あらぬ方向に暴走する側面にも脱力してしまう。しかし、これはイデオロギーの書でもプロパガンダの書でもない。むしろ、ジジェクが矢鱈にあちこちにプラグインする言説に、当方のコンテキストで淡々とプラグインしてみるための書だ。
<外部>の生成。資本主義も共産主義も、数限りなく取り返しのつかない失敗を繰り返してきた。ここで誤謬とされるのは、主義の怪物化を、その本質と離反する<外部>に帰する言説だ。例えば、本質的に主義とは異なる<帝国主義>を外敵とみなすように。また、スターリン主義において<準富農>という階級をグラデーションのなかに作り出し、外敵構造を誘い出したように(これは、ミシェル・フーコーが『監獄の誕生』において看破した、マージナルな領域を敢えて作り出した動きとも重なる)。
そうではなく、多くの<別なるもの>は、主義みずからへの回帰に他ならない。ジジェクは、『スター・ウォーズ』をその例として挙げる。帝国が共和国を征服したのではなく、帝国が共和国そのものであったのだ、と。ここでジジェクはネグリ/ハートを引用している。
内なる矛盾の併呑、これがジジェクによる毛沢東への視線のようである。鄧小平を経て現代の中国に至り、「・・・その制限なき市場支配に制約を加える場合にだけ、資本主義が完全なる繁栄を誇ることができるといった竹箆返し」についても、みずからへの回帰として提示されている。デヴィッド・ハーヴェイが『新自由主義』において、現代のネオリベ国家は中国であると言ったとき、非常に違和感を覚えたものであったが、ここにみられる視線は同質のものである。
返す刀でジジェクは主張する。<革命>を活かし続けるには、絶え間なく繰り返される<紛いの無限性>、または<永久的自己革命>が唯一の手段であったのだ、と。これは非常に危うい考えであるように思われる。革命国家が一方で絶えず内部に作り出す<外敵>との闘争(例えばスターリンによる粛清や文化大革命)との差異は何だろうか。<紛いの無限性>という場合に、暗に回帰すべき<本質>を想定してはいないだろうか。勿論、ジジェクは文革が惨めな失敗であったことにも言及しているのだが、さて、その辿りつく結論めいたものは、例えば、戦争については「まず反対し、次いで恐れない」ことだけが正しい姿勢だなどという嘯きである。これでは容易に、近代中国の人命軽視や、日本軍の死を賭した態度の肯定に転んでしまう。
それは置いておいても、二項対立に堕してしまう<外部>化という考え方は非常に興味深い。<テロとの戦争>はわかりやすい例であり、自由と民主主義を支持するのか、それとも反対するのか、という吐きそうな言説となって流布している。
選挙制度という、本来<民主主義>を実現するための制度さえ、国家権力を<外部>として見なすための装置となっているようだ。そしてそれは暴力でもある(沖縄を例に挙げるまでもなく、現代の日本において、これは常識である)。ジジェクは、ベンヤミンの表現を用いてこう言っている。「民主主義は、制定された暴力を大なり小なり取り除くことができるが、依然として制定する暴力に依存し続けねばならない」、と。
そして二項対立から三項目の楔の存在へ思索は進む。具体性を欠いているものの(このような局面で、ジジェクは突然に純真な政治青年と化す)、示唆的なところである。
「民主主義には、基本において相容れない、二側面がある。一方には「員数外」または「非-部分の部分」の者たちが存在する。彼(女)たちは、形式的には、社会組織に含まれてはいるものの、その内部に確たる場をもたない者たちが体現する平等の暴力的な強制という側面を担っている。他方には権力執行者を選任するに当たっての(多少とも)制御された普遍的手続きという側面が存在する。この二側面はどのように切り結んでいるのか? 後者の意味における民主主義(「人民の声-票」を登録する制御された手続き)が、究極的には、みずからとは対立する一つの防衛、すなわち社会組織の位階的機能を撹乱する平等の論理の暴力的侵入という意味での民主主義〔前者〕に対立する一つの防衛、この過剰を再-機能化し、社会システムを規範的に作動させるための一部分として組み入れる企てだとすればどうだろう?
したがって問題は、暴力的な平等主義的民主主義が孕む衝動を制御/制度化しながらも、この衝動を語の第二の意味〔制御された手続き〕での民主主義のなかで溺死させないようにするにはどうするか、である。この方法がなければ、「真正の」民主主義は理想郷の束の間の突出に留まることになり、よく知られた「宴の後」のように、規範化されてしまうことになるだろう。」
●参照
○アントニオ・ネグリ『未来派左翼』(上)
○アントニオ・ネグリ『未来派左翼』(下)
○デヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義』
○『情況』の新自由主義特集(2008年1/2月号)
○『情況』のハーヴェイ特集(2008年7月号)
○ミシェル・フーコー『監獄の誕生』
○ミシェル・フーコー『コレクション4 権力・監禁』