エマニュエル・レヴィナス『存在の彼方へ』(講談社学術文庫、原著1974年)を読む。原題は『存在するとは別の仕方で あるいは存在することの彼方へ』である。レヴィナスのバックグラウンドとして、リトアニア出身のユダヤ人であり、地元に残ったほぼ全員の親族がドイツ軍に殺されたこと(ジョナス・メカスはいつレヴィナスのことを意識しただろう?)、フッサールとハイデガーに師事し、そこから出発したこと、デリダの思想との相互の影響(とくに応答という考えについて)、といった点が挙げられる。
存在という我執は、既にそこにある存在から捉えることはできない。自我も、<語られたこと>も、既にそこにある存在であり、そうではなく、存在の彼方に超越し、予知できない<語ること>に我が身を曝さなければならない。語りえぬことを語ることはできないと言ったのはヴィトゲンシュタインだが、語りえぬことかどうか予見できないままの曝露ということである。それが<他者>への責任であり、<善>や<愛>であり、全ての者の倫理たるべきものである。レヴィナスのこうした主張は延々と続き、信仰にも重なってくる。
我が身を<語ること>に曝すということは、レヴィナスによれば、予見できぬ受動性であり(受苦の内容を予見できればそれは<語られたこと>に吸収されてしまう!)、<他者>のために<身代りになること>に他ならない。逆に言えば、自己さえも出発点ではありえない。全く無条件に自らを安住の場所から追放し続けることで<他者>への応答責任を果たさなければならないとする考えは、<他者>の偏在を示したデリダ、ミクロな分子群となって<他者>になるイメージを示したドゥルーズ/ガタリと比べてみても、相当に苛烈なものだと感じられる。
「しかし、贈与することは単なる自我の不在ではない。自己に反して自己から引き剥がされることとしてのみ、贈与することは意味を持つのだ。が、このように自己に反して自己から引き剥がされることが意味を持つのは、享受における自己満足から引き剥がされること、みずからの口からパンを引き剥がすこととしてのみである。」
「自己に回帰すること、それはわが家に腰を落ち着けることではない。それは一切の所有物を奪われてわが家に戻ることでさえない。
自己に回帰すること、それは異邦人としてわが家からも追い出されることである。(略) 自己を曝露しつつこの曝露そのものに責任を負う能作を超えて、自己を更に曝露すること―自己表出し、初語すること―、それは不朽不変の<一者>たることである。言い換えるなら、自己の曝露をも曝露することである。初語という能作は受動性の受動性なのだ。」
レヴィナスは、走っても走っても届かない光を夢想しているようにも見える。しかし、これは抽象的な戯言ではない。<語られたこと>は支配のコードであり、意識の帝国主義であり、押しつけられた歴史であることが常に示唆される。<語ること>はそういった世界にぶつける善と愛の哲学でもある。例えば、歴史に対する国家あるいは成員すべての責任や、偏狭なナショナリズムとの決別を考える際の哲学にもなりうるだろう。そして、わずかではあるが、<語られたこと>から<語り直し>へのシフトさえも示されている。これは押しつけられた歴史の転換哲学である。
「責任・応答という<語ること>は、一者が自己のうちに閉じ籠らないための唯一の仕方であり、それによってのみ、一者はその自同性の手前で他者の身代わりになる再帰をつうじて、自己を剥き出しにするのだが、一者は身代わりの関係のうちで自己を多様化するのではなく、逆に、一者は身代わりの関係のうちで自己の統一性を告知するのだ。」
●参照 他者・・・
○ジャック・デリダ『死を与える』 他者とは、応答とは
○徐京植『ディアスポラ紀行』
○ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(中)
○柄谷行人『探究Ⅰ』
○柄谷行人『倫理21』 他者の認識、世界の認識、括弧、責任
○高橋哲哉『戦後責任論』
○戦争被害と相容れない国際政治