Sightsong

自縄自縛日記

北井一夫『神戸港湾労働者』

2012-12-01 23:39:32 | 関西

ギャラリー冬青で、北井一夫『神戸港湾労働者』のトークショーを聴く。相手は、東京都写真美術館の藤村里美学芸員。

曰く。

1965年、20歳で学生運動を撮り、『抵抗』を出版した氏だが、これがまるで売れなかった。それで、高校時代を過ごした神戸に戻り、しばらく港湾労働者たちの写真を撮っていた。アパートの前で暴力団の抗争があったり、毎日カメラを持ってうろうろする氏にサングラスの男(写真にも写っている暴力団員)が声をかけ、重労働をやってみたりもした。

もともと日本的なものが嫌いで、モダンジャズや米国の抽象表現主義(ジャクソン・ポロック、ジャスパー・ジョーンズ)に魅かれていた氏は、最初画家を志すも断念。金丸重嶺氏の口利きもあり日大芸術学部に入学(のちに退学)、最初はキヤノネットを使って、もっと良いカメラを買いなさいと諌められた。そのようなわけで、『抵抗』はミノルタSR-1と50mm、100mm(少し)を使った。

反抗の時代だった。高校時代はケルアックの言うジャズに憧れ、7時から開いているジャズ喫茶に立ち寄って、毎日30分くらい遅刻していた。『抵抗』は、暗室では白衣、温度計、計量カップをすべて拒否して目分量で現像した。それが自分の中のモダニズムのようなものだったが、ただの反抗でもあった。とにかく反抗していた。

『抵抗』では、被写体が皆動いてくれて意外に撮りやすかったが、『神戸港湾労働者』では、相手が怖くてあと一歩を寄ることができず、写真の大変さを自覚した。それで、ケンコーだかコムラーだかの300mmを使ったが、これが悪いレンズで、ボケボケになった。それにニコンの135mmと21mmをニコンFに付けて使った。標準レンズは使わなかった。

自分がいないと誰も学生運動を撮ってくれないからと、全学連の前進社が戻ってほしいと連絡してきた。そろそろ神戸の写真も一区切りかなと思っていたので帰り、『過激派』を撮った(12月4日から、Zen Fotoで展示)。撮った写真を翌朝までに半切にプリントしておいて、立看用に売った(500円くらい?)。これが結構良い収入になった。

フィルムを100フィート巻からスプロケットに巻くと、氏は下手で傷だらけにしてしまった。印画紙も放っておいてくっついていたりした。そんな媒体を使うと、絵でいうマチエールのようなものが出て、意図的にそのようにした。

写真ではウジェーヌ・アジェが好きだった。パリに住む人の視線だった。同様に、ジャスパー・ジョーンズも、靴やハンガーなど日常そのものをアートにした。このように日常を作品にすることは、写真に向いているのではないかと思った。『バリケード』でも、トイレットペーパーなど、そんな作品がある。

ただ、日本の写真はさほど好きではなかった(東松照明、奈良原一高、細江英公など)。中平卓馬も最初は意気投合したが、やがて政治への距離の面から話がかみ合わなくなった。中平は情緒的で相手と自分との間で宙ぶらりんな位置に身を置き、荒涼とした根なし草的なものを求めていたが、自分はもう少し自分のなかでかっちりしたものが欲しかった。

政治は強い。写真は引っ張り廻されてしまう。それで、政治と訣別し、自分の目で視ることができる対象を選んだ。日常や人を撮りたいと思った。

冬青社の社長によれば、氏の写真には、子ども、道、電信柱が登場する。

子どもは、自らの幼児体験の投影のように思えた。また、田舎は過疎化しており、働ける大人は出稼ぎでいなくなって、子どもか老人ばかりになっていたこともある。

田舎の道は良い。東日本大震災のあと、『村へ』でよく訪れた石巻を再訪した。悲惨さを押しだすのは自分の写真ではない。何を撮るか。家はなくなっても不思議と道は残っている。氏は、そういうものを撮ってきたので、謙虚にこつこつと、残った道を撮ることを考える。

そして電信柱。学校では、電信柱をフレームから避けるようにと指導された。土門拳などは撤去させた。なぜ世の中にこんなにあるのに除け者にするのか。それで、真ん中に入れることにした。これも抵抗だった。

もう、どこの田舎にいっても同じ風景でつまらなくなった。また、旅をし過ぎて嫌になった。そんなわけで、『ライカで散歩』では、氏は自宅の船橋を撮り、そのうち自宅の中を撮るようになってしまった。しかし、また、旅に出る。氏の生まれ育った旧満州、沖縄の拝所など土俗的なもの、そして被災地を、うまくまとめようと考えている。具体的な方法はまだ目途がたっていない。

ところで、氏の未発表の作品には、深川木場の祭や風景(母親の親戚から撮影を頼まれた)、川口の鋳物職人を撮った作品群があるという。

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トークショー後、北井さんに署名をいただき、『神戸港湾労働者』の作品群をじっくりと観た。

確かにボケボケの300mm作品も、21mm作品もある。露出はかなりばらついているようだ。いやそんなことよりも、既に、人を撮る北井写真になっている。港湾の資材でかくれんぼをする子どもたち、ぱらぱらと子どもがうごめいている風景、サングラスをかけてカメラを視る暴力団組員、急いで立ったまま昼飯をかきこむ労働者。数点だけあるヴィンテージプリントと新しいプリントとを比較すると、過去にトリミングをした工夫などがわかって面白い。

できれば1枚欲しい。

北井一夫情報
●『いつか見た風景』 東京都写真美術館 2012年11月24日~2013年1月27日
●プリント販売点 『抵抗』から現在へ 神保町・小宮山書店 2012年11月14日~12月25日
●『過激派』 Zen Foto Gallery 2012年12月4日~12月29日
●『Barricade』 Harper's Books、発売中
●『村へ』カラー版(2014年?) ギャラリー冬青
●『三里塚』 ワイズ出版のものよりも前の作品群、もうドイツの出版社のカタログには載っているとのこと(?)

●参照 北井一夫
『1973 中国』(1973年)
『遍路宿』(1976年)
『境川の人々』(1978年)
『西班牙の夜』(1978年)
『ロザムンデ』(1978年)
『ドイツ表現派1920年代の旅』(1979年)
『湯治場』(1970年代)
『新世界物語』(1981年)
『英雄伝説アントニオ猪木』(1982年)
『フナバシストーリー』(1989年)
『Walking with Leica』(2009年)
『Walking with Leica 2』(2009年)
『Walking with Leica 3』(2011年)
中里和人展「風景ノ境界 1983-2010」+北井一夫
豊里友行『沖縄1999-2010』


出口京太郎『巨人 出口王仁三郎』、早瀬圭一『大本襲撃』

2012-12-01 10:18:12 | 思想・文学

出口王仁三郎という人物は、わたしにとってはオカルト世界の存在であった。何しろ中高生の頃に『ムー』を読んでいた時期があり、UFOだとか心霊だとか超常現象だとか歴史上の奇人・怪人だとか、そのような話は一通りさらったつもりでいる。そんなわけで、おかしな熱病を体験したため、大人になっても、非論理的な話や宗教からは距離を置くことができているつもりでいる(その良し悪しは置いておくとして)。

勿論、出口王仁三郎はそのような文脈で視るべき人物ではない。明治の19世紀末、開祖・出口なおとの出会いにより、宗教「大本」を興した偉大なる宗教家であった。

王仁三郎の孫・出口京太郎氏により書かれた『巨人 出口王仁三郎』(講談社文庫、原著1967年)は、その王仁三郎が、如何に破天荒で、かつ、マルチな才能を持った人物であったかを、講談調で語っている。後半になるにつれ、筆致が勢いを増してくるのが面白い。

戦前戦中、 出口王仁三郎は、道鏡、足利尊氏、明智光秀とならぶ「逆賊」とみなされていた。それは、二度の大弾圧を行った国家権力と、それを追認する新聞メディアの力によるものであった。開教当時、稲荷信仰よりもさらに民衆信仰として天理教や金光教が普及しており、さらに、この大本が、「世直し」を謳う宗教として登場したわけである。大本はその過程で左翼も右翼も引き込み、反権力のムーブメントとして力を持つようになったため、国家権力はそれを看過できなかった。

弾圧の根拠は、「不敬罪」であったり、治安維持法に底触する国体変革の意図であったりした。それらはなかったとは言えないのだろうが、罪に問われるようなことではない。それほど、このムーブメントが国家権力にとって脅威であったということだろう。

ただ、むしろ、日本の帝国時代の南進政策や満州侵略政策と同調する側面があることは気になる点だ。それほどに様々なベクトルを内包していたということか。

本書に紹介されているエピソードはいちいち面白い。

北一輝や軍部の橋本欣五郎は、クーデターを起こすため、信徒を動員してくれと王仁三郎に依頼した(断られた)。
○王仁三郎の『霊界物語』執筆ペースは凄まじく、2日で1冊を書き終えたこともある。
○エスペラント運動を通じて、ロシアの詩人エロシェンコ(魯迅『あひるの喜劇』の主人公としても登場し、中村彜により肖像画が描かれている)も、大本に共鳴した。
○モンゴルに新たな宗教基盤を作るべく大陸入りしたが、張作霖の不興を買い、銃殺刑に処せられる直前で一命を取りとめた(パインタラ事件)。なお、このとき、合気道の開祖・植芝盛平が信者として同行している(あれだけ強い神話を作った盛平も、結局多数に無勢?)。また、大陸入りのきっかけともなった日野強(元海軍)は、中国において、第二革命の李烈鈞を援助した人物だった。内田良平や頭山満など、当時のアジア主義者の運動のなかにも位置づけられるわけである。
○満州国皇帝に溥儀を擁立しようとする動きに、王仁三郎も一役買っている。また、サイパンに神社を建立してもいる。(このあたりが、日本の版図拡大と同調しているところである。)

どのような文脈であれ、王仁三郎が巨人・奇人・怪人であったことは確かだ。

早瀬圭一『大本襲撃 出口すみとその時代』(新潮文庫、原著2007年)は、1935年の第二次大本弾圧を丹念に追った書である。

本書を読むと、国家権力が、とにかく不穏で脅威であった大本を、まず徹底的に潰すことを目的として、後付けで不敬罪や治安維持法への底触などを捏造しようとしたことがよくわかる。著者は、その原因として、ムードだけではなく、大本が宗教団体から政治団体へと変容していたことを挙げている。

拷問は熾烈であった。ターゲットは高齢の王仁三郎ではなく、娘婿の日出麿に向けられ、そして日出麿は発狂に至った。小林多喜二が拷問により獄死したすぐ後のことである。幹部だけでなく、何百人もの信者が何らかの拷問を受けたという。しかし、結局は、戦後までかかった裁判によって、大本が有罪となることはなかった。

拷問はともかく、警察や検察が調書を捏造することによる冤罪事件は、現在も続いている。そのひとつのルーツはここにもある。

もともと昭和ファシズムとは相容れない教義を持つ大本は(上のような海外進出と同調した側面はあるとはいえ)、結果的に、弾圧によって、戦争協力を強いられることもなかった。興味深い歴史である。

ところで、本書はサブタイトルの通り、王仁三郎の妻・すみに焦点を当ててまとめられている。大本は現在に至るまで女性教主の伝統を持ち、なおの娘すみは二代目教主だった。そのすみもまたユニークな人物であったようで、面白いことに、「下手クソ」な書をたまたま見た北大路魯山人がその天衣無縫さに驚愕し、評価したという。わたしには書の良し悪しを評価する能力がまるでないが、この面白さならばまとめて観賞してみたいと思う。


旨い宮崎

2012-12-01 00:06:46 | 九州

所用で30年ぶりくらいに足を運んだ宮崎。いろいろ旨いものあり。


西米良サーモン(西米良村の名物。カワマスとエゾイワナのかけあわせ)


宮崎地鶏(大蒜のすりおろしを付けて食べる)


メヒカリのから揚げ


焼きおにぎり

写真を撮らなかったが、宮崎観光ホテルの朝食バイキングはハイレベルだった。あれだけを目当てに泊まっても良いくらい。