Sightsong

自縄自縛日記

ジョナス・メカス(8) 『ファクトリーの時代』

2012-12-07 23:58:53 | 小型映画

ギャラリー「ときの忘れもの」にて、『ファクトリーの時代』(1999年)を観る。

手持ちのぐらぐら揺れるヴィデオカメラで、メカス自らの呟きとともに、周囲を、呟く自分の顔を、撮る。このスタイルは、近作の『グリーンポイントからの手紙』(2004年)でも、『スリープレス・ナイツ・ストーリーズ 眠れぬ夜の物語』(2011年)でも、同じだ。

かつての16mmのボレックスがヴィデオカメラに替わっただけではない。勿論、ぐらぐら揺れるカメラ、露出の過不足、ピンボケなどは昔も今も同じである。しかし、決定的な何かの違いがある。フィルムによる多くのフッテージを寝かせ、小間切れにして編集し、呟きをかぶせるというスタイルが、同録で長めのフッテージをつなげるというスタイルに替わったことが、映像のアウラも異なったものにしてしまっていると思える。精神の自由さはますます増しているようにも思える。

ファクトリー」とは、1964年頃からの、アンディ・ウォーホルが中心となった活動場所だった。この映画は、ファクトリーについてメカスたちが思いだし、語るものとなっている。それに耳を傾けていると、いかに自由で、過激で、人間的な活動であったのかということがわかってくる。なかでもメカスが強調するのは、さまざまな人の間をつなぎあわせたバーバラ・ルービンという女性の存在だった。

ただの思い出話ではない。過去であれ現在であれ、外に開かれたメカスの精神が、映像の魅力を生んでいる。

今月末に、メカスは90歳になる。ギャラリーがメカスに送るというメッセージカードに、自分も署名を書き入れた。

●参照
ジョナス・メカス(1) 『歩みつつ垣間見た美しい時の数々』
ジョナス・メカス(2) 『ウォルデン』と『サーカス・ノート』、書肆吉成の『アフンルパル通信』
ジョナス・メカス(3) 『I Had Nowhere to Go』その1(『メカスの難民日記』)
ジョナス・メカス(4) 『樹々の大砲』
ジョナス・メカス(5) 『営倉』
ジョナス・メカス(6) 『スリープレス・ナイツ・ストーリーズ 眠れぬ夜の物語』、写真展@ときの忘れもの
ジョナス・メカス(7) 『「いまだ失われざる楽園」、あるいは「ウーナ3歳の年」』


ジャン=リュック・ゴダール『軽蔑』

2012-12-07 07:35:45 | ヨーロッパ

久しぶりに、ジャン=リュック・ゴダール『軽蔑』(1963年)を観る。

VHSも持ってはいるのだが、今となっては画質が汚い。DVDは1000円だった。

劇作家(ミシェル・ピコリ)とその妻(ブリジット・バルドー)。米国の映画プロデューサー(ジャック・パランス)は、フリッツ・ラング(本人!)を監督に迎え、ホメロス『オデュッセイア』の映画化をもくろんでいる。劇作家は脚本を担当するが、そのなかで、妻との関係が崩壊する。

俳優陣が痺れるほど好みだ。BBの顕示する肢体と妖しい視線。ジャック・パランスはもはや怪人(ロバート・アルドリッチ『攻撃』での迫力は凄まじかった)。逆にピコリは怪人化する前か。

BBは打算のない愛を享受してきた。映画冒頭の、裸での夫との会話場面がとろけるほど良い。

「わたしの足首は好き?」
「好きだよ」
「膝も好き?」
「君の膝も大好きだよ」
「太腿は?」
「太腿も愛しているよ」
「わたしのお尻は鏡に映ってる?綺麗?」
「とても綺麗だよ」

しかし、妻は、理性で慎重に動く夫を軽蔑する。愛を失うことを恐怖した夫は、それを理性で取り戻そうとして、無償性を自ら潰し続ける。

ラングは、『オデュッセイア』において、ユリシーズが妻のもとに帰りたくなかったがために長い旅に出たのだと語る。夫が愛を壊してしまったのは単なる結果か、意図せずしての破壊欲か。

『オデュッセイア』における神々の世界は、やがてこの映画そのものにもオーバーラップしてきて、神の視線で夫妻の姿をとらえはじめるように思える。愛も死も神の視線で語られるのである。

甘いと言われそうだが、実は好きなゴダール映画。