Sightsong

自縄自縛日記

1985年の里国隆の映像

2013-10-27 23:33:55 | 沖縄

ベーシストの齋藤徹さんが、里国隆のホームヴィデオによる映像記録を送ってくださった。

「第1回発表会/関西奄美北大島民謡/おさらい大会」(1985年5月19日、尼崎サンシビック)における、特別ゲストとしての登場である。これは嬉しい。

これまで里の映像としては、「あがれゆぬはる加那」を唄っている短いものしか観ることができなかったのだ(>> リンク)。NHKのドキュメンタリー『白い大道』(2005年)にも、里本人の映像は入っていなかった(>> リンク)。

民謡の発表大会であるから、勿論、他の唄者たちも登場する。その中で、里は3回も登場する。

1回目:里国隆(三線、唄)+中村ヤエ(唄、三線)
2回目:里国隆(竪琴、唄)+萩原キミエ・松山美枝子(唄、三線)
3回目:里国隆(竪琴、唄)

驚いたことに、里の語りは軽妙であり、会場も相方も笑わせる。唄を指定したところ、相方の萩原キミエと松山美枝子が仰天、耳打ちすると、「風の吹きまわし」だとして(予定通り?)「あがれゆぬはる加那」に変更する始末。考えてみれば、里は樟脳売りをしながらあちこちで唄っていたのであり、売り込みの語りが達者でなければならないのだった。

それにしても、どこかがびりびりと響くような唄声は、文字通り唯一のものだと思わせる。呻きなのか、叫びなのか。喉を震わせているのか、頭蓋全体が音を発しているのか。貴重な記録を観ることができた。

ところで、他の唄者にも、里と同じく大きな竪琴を演奏する人がいる。かつて、竪琴を持って唄う樟脳売りは、どれほどいたのだろう。島尾ミホ『海辺の生と死』には、昔の奄美の話として、島に流離してくる人々のなかに「立琴を巧みに弾いて歌い歩く樟脳売りの伊達男」がいたとある(>> リンク)。ひょっとしたら、里本人だったのかもしれない。

里国隆は、この映像の1か月少しあと、1985年6月27日に亡くなった。

●参照
里国隆のドキュメンタリー『白い大道』
島尾ミホ『海辺の生と死』


佐藤洋一郎・赤坂憲雄編『イネの歴史を探る』

2013-10-27 08:23:17 | 環境・自然

佐藤洋一郎・赤坂憲雄編『イネの歴史を探る』(玉川大学出版部、2013年)を読む。

東アジア、東南アジア、南アジア、どこでも田んぼを目にする。長い間、人の手が入った自然である。コメやコメ料理が場所によって大きく異なるように、田んぼも土地それぞれの顔を持っている。

本書は、コメ作りのみならず、野生のイネについての研究までも紹介している。その野生イネもさまざまで、タネをつけないものもあった。それが、中国・長江流域(6千年前だという)やインド・ガンジス川流域から意図的な稲作が拡がっていき、収穫効率の良いタイプへと選択的にシフトしていくことになる。たとえば、背が高いものよりも低いものの方が、また、穂が自然に落ちるものより落ちないものの方が、収穫効率がよい。また、赤米から突然変異で生まれた白米が選択され、主流となった。

東南アジアの近代農法が普及していない地域では、農法だけでなく、コメのタイプにも古いものがまだある。しかし、近代的・画一的にすることが良いばかりではない。昭和の不作・飢饉は、そのような画一化により総倒れになったことが理由だという。東南アジアにおいて、たとえば頻繁に村々の間で種を交換したり、同じ田んぼでも多種多様なコメを栽培したり、といったことが行われ、収穫できないリスクを回避している。しかし、収穫効率を追求する近代農法ではそれは否定される。また、単一でないコメは流通させることができない。まさに、近代の陥穽というべきである。

本書ではじめて知ったものに、プラント・オパールというものがある。コメは珪素を取り込み、それはガラス体となり、焼かれたり分解したりしても残る。つまり、遺跡で出土されるプラント・オパールの分析が、当時の稲作を探る手掛かりとなるわけである。

それを含め、本書では、分析やフィールドワークの方法を紹介している。何でも、アジアのフィールドワークにおいて、自動車を止めることなく野生イネを見出す能力さえも要求される現場だという。別に稲穂が垂れているわけでもなく、ただの貧相なる草である。他にも、調査場所でのご飯の食べ方のコツなど、研究者の生の声がいちいち面白い。科学を人間の仕事として見せてくれている。


ベトナム・サパの棚田とトウモロコシ(2012年6月)


ベトナム・サパの棚田(2012年6月)

●参照
佐々木高明『照葉樹林文化とは何か』
2012年6月、サパ(本書にも登場する場所)