Sightsong

自縄自縛日記

赤塚不二夫『マンガ狂殺人事件』

2014-04-20 21:58:42 | もろもろ

この間、サンリオSF文庫を物色しようと入った古本屋で、隣に、赤塚不二夫『マンガ狂殺人事件』(作品社、1984年)というものがあった。つい、衝動的につかんでしまった。

トキワ荘やら、スタジオ・ゼロやらで、殺人事件が起きるが、犠牲者の松本零士や横山光輝は実は仮死状態。そのすべてに、つげ義春が関与しており、犠牲者の横には「ねじ式」だの「ゲンセンカン主人」だのといったメモが落ちている・・・といった、まったく内輪ネタばかりの実にバカバカしい話。(面白かったけれども。)

この中で、つげ義春の肩からはライカが下がっている、とあるが、ここにはリアリティがない。つげ義春の収集したカメラは日本製の渋いものばかりの筈で、実際に、「芸術新潮」誌のつげ義春特集(2014年1月号)に掲載された写真の中にも、ライカはなかった(たぶん)。つげ義春の妻・藤原マキの画文集『私の絵日記』に、つげ義春がカメラをいじくっている絵があったが、別に細密に描かれたものでもなく、どんなカメラかの手掛かりはなかった。

ところで、作家でない有名人に「○○狂殺人事件」を書かせる「RADICAL GOSSIP MYSTERY」シリーズがあったようで、巻末にはヘンなものがいくつか紹介してある。タモリ『タレント狂殺人事件』、山本晋也『ポルノ狂殺人事件』、ビートたけし『ギャグ狂殺人事件』、荒木経惟『写真狂殺人事件』、おすぎとピーコ『映画狂殺人事件』、立川談志『落語狂殺人事件』・・・。ああ、あほらし。


ホレス・シルヴァー with ルー・ドナルドソン『Live in New York 1953』

2014-04-20 11:02:01 | アヴァンギャルド・ジャズ

ホレス・シルヴァー with ルー・ドナルドソン『Live in New York 1953』(Solar Records、1953年)という、未発表音源が出ていた。

Horace Silver (p)
Lou Donaldson (as)
Jimmy Schenck (b)
Lloyd Turner (ds)

録音が1953年9月14日。ニューヨーク・バードランドでのシルヴァーやルー・ドナルドソンのライヴ録音といえば、アート・ブレイキー『A Night Birdland』をどうしても思い出すが、それは1954年2月21日。つまり、ブレイキー、シルヴァー、ドナルドソン、クリフォード・ブラウンらによる歴史的なセッションの5か月前の録音ということになる。

1951年にニューヨークに出てきたばかりのシルヴァーは、このとき25歳。また、ドナルドソンは26歳。この録音はあまり音質がよくないが、かれらの勢いと個性は十分すぎるほど感じ取ることができる。

シルヴァーの延々と続くピアノソロは文字通り熱い。同じ音をしつこく繰り出すスタイルは、当時のシーンにおいて、どのように受けとめられ、歓迎されたのだろう。ここではジャズ・スタンダードが中心だが、その後、ユニークな作曲により、さらに魅力を増していく。昨年末(2013年)、シルヴァー死去のデマが流れたことがあった。そんな事件で思い出していないで、もっと、この不世出のピアニストを聴かなければならない。

ドナルドソンは、その後のまったりと艶やかなスタイルよりも、火が出るようなアルトソロを取っている(これはブレイキーの名盤においても同じ)。わたしも昔、「Blues Walk」のコピー譜をせっせと真似したこともあって、親近感がある人なのだ。90年代前半だったか、「マウント・フジ・ジャズ・フェスティヴァル」において、「Misty」や「Alligator Bogaloo」を聴いて、ずいぶん気持がよかった。その後は演奏を観ていないが、どこかの雑誌で、「ケニーG!」と自己紹介してゲラゲラ笑うという記事を読み、オヤジめと思った記憶がある。もう87歳、今年来日するようだ。また観てもいいか・・・。


E・L・ドクトロウ『ダニエル書』、シドニー・ルメット『Daniel』

2014-04-20 00:59:07 | 北米

ようやく、E・L・ドクトロウ『ダニエル書』(サンリオ文庫、原著1971年)を読み終えた。

時空間も、語り手も、話題も、あっちへ行ったりこっちへ行ったりするスタイルがドクトロウの特徴のようだが、そのわかりにくさに加え(これを英語で読みこなす自身はない)、翻訳が生硬で読みにくかったのである。とは言え、後半になるに従って、だんだん面白くなってきた。

戦後、米国ではマッカーシズムという名の反共産主義=赤狩りの嵐が吹き荒れた。その状況下で、ローゼンバーグ事件(1950年)が起きる。左翼活動を行っていたローゼンバーグ夫妻が、FBIによって突然逮捕され、死罪に処せられた事件である。ソ連への情報提供というスパイ容疑であったわけだが、これは、冤罪かつ活動弾圧であるとして激しい反対運動を起こすことにもなった。(もっとも、夫妻は実際にスパイであったようである。)

小説の主人公・ダニエルの両親アイザックソン夫妻は、このローゼンバーグ夫妻をモデルとしている。まさに、当時の苛烈な弾圧と、社会全体での同調圧力や反共ヒステリーとが、これでもかと言わんばかりに執拗に描かれており、現在の日本と共通する雰囲気をも感じさせるものだ。また、その一方で、弾圧される側=リベラル左翼の、あまりにもナイーヴで教条主義的な姿も描かれている。現実社会で生きるとは、多かれ少なかれ、清濁併せ呑むことでもある。

この小説が優れている点は、さまざまな立場で動いた者たちを、パラノイア的に、ミクロな権力の流れを集積することで描いてみせたことだ(つまり、権力関係は、フーコーの言うように、隣り合う小さなモノの間にも発生する)。読みにくいのは仕方がない。

ドクトロウは、最新作『Andrew's Brain』(2012年)でも、この独自なスタイルを続けている。あまり好みではないが、異能の作家と言えるのかもしれない。

『ダニエル書』は、シドニー・ルメットによって、『Daniel』(1983年)として映画化されている。日本未公開ゆえ、北米版DVDを入手した。

ほぼ原作のストーリーを踏襲しており、さすが名匠ルメットの手によるものだけあって、それなりに面白い。

ただ、原作の精神からのつながりでみるならば、この映画は、表面をなぞっただけの代物だと言うことができる。ストーリーや、50-60年代の米国の風景や、社会運動の様子などを見せてくれるわけだが、それは本来不要な要素だった。パラノイア的なミクロな権力関係や、ドグマにとらわれた人びとの挙動こそが原作小説の核なのであり、それらは、この映画の中にはない。アイザックソン夫妻の死刑場面が映画のクライマックスであるなど、くだらぬ限りである。脚本もドクトロウによるもののようだが、本人はどう考えていたのだろう。

●参照
E・L・ドクトロウ『Andrew's Brain』