Sightsong

自縄自縛日記

山崎阿弥+ネッド・ローゼンバーグ@千駄木Bar Isshee

2019-06-05 21:36:04 | アヴァンギャルド・ジャズ

千駄木のBar Issheeで注目のデュオ(2019/6/4)。

Ami Yamasaki 山崎阿弥 (voice)
Ned Rothenberg (cl, 尺八, as)

このふたりがデュオで共演するのははじめてだそうで(プライヴェートな場ではあっても)、以前の共演は、エリック・フリードランダー、別のチェロ、カール・ストーンがそれぞれ加わったトリオ編成の3回。一方、ネッドさんがヴォイスとのデュオで吹き込んだ作品は、サインホ・ナムチラックとの『Amulet』(1996年)のみ。それ以外にヴォイスとともに録音した機会は、故トム・コラの夫人でもあったキャサリン・ジェニオーらとのものがあるがデュオではないという。従って、阿弥さんとネッドさんとのデュオも、ネッドさんがヴォイスパフォーマーと行うデュオも、ちょっと珍しいということになる。(なおわたしは90年代にネッド~サインホデュオを六本木ロマーニッシェス・カフェで観たが、ネッドさんによれば、もう1回同じ場所で、佐藤允彦さんが参加したトリオでやったはずだ、とのこと。)

驚いたことに、阿弥さんは息をまるで手裏剣を飛ばすかのように四方に放つ。パフォーマンスの前にはエアコンを切らなくてもいいとの確認がなされたのだが、その音とあい混じって、最初から部屋のあちこちが息づいている錯覚を持つ。ネッドさんはクラで脱力するような旋律もバスクラを思わせる音も出し、やがて循環呼吸奏法に入った。ピキピキとした高音と響く低音とが混じり、阿弥さんがシンクロし、犬の遠吠えのようでもあり、風が吹く中で鳥の声と口笛が聴こえもする。

阿弥さんはときにマイクを巧妙に使う。しかし大きく増幅するための機械のはずが、鈴虫の声を拾って微かなままに出すのだから面白い。ネッドさんは追従し発展させる。そして阿弥さんが何かを諄々と物語るとクラは物語的なフレーズを発し、阿弥さんが童女から虫まで変化すれば木管ならではのマテリアル的な音で対する。ときにヴォイスなのか管なのかわからなくなる瞬間がある。

ネッドさんは尺八に持ち替え、ひとりで微かな音を出す。共鳴ではなく漏れる音がまるで電子音のようで、阿弥さんは明らかにここを狙って犬のうなりを重ねてきた。尺八は幽玄の領域に入り、ヴォイスは夜の梟にも化ける。

セカンドセット。ネッドさんはアルトで破裂するようなマルチフォニック音を急に放ち、阿弥さんは同等の迫力でそれに応じる。しかし一転して、七尾旅人の「サーカスナイト」を囁き始める。これに対して、ネッドさんは吹きながら声も出すし、あえてキーの音をかしゃかしゃと鳴らすように吹きもする。

ここで再び、阿弥さんが「んなっ」という声とともに息の手裏剣を飛ばし、ネッドさんもまた別の手裏剣をアルトから放つ。やがて阿弥さんはリズムマシーンと化し(というか、複数の声を持つ人となり)、ネッドさんは複数のヴィブラートを重ね合わせて、ふたりでこちらの脳を複雑に震わせにかかった。阿弥さんは力を振り絞り、蒸気機関車のようにサウンドをドライヴした。

アンコール。ふたりがまるで櫛を交互に抜き差しするようなダイナミズムがあった。

それにしても、ネッドさんは勿論だが、阿弥さんの極限的な音波と振れ幅の広さは何なんだ。はじめて知った時も驚いたがこの日も驚いた。

Fuji X-E2、7Artisans 12mmF2.8、XF35mmF1.4

●山崎阿弥
ローレン・ニュートン、ハイリ・ケンツィヒ、山崎阿弥、坂本弘道、花柳輔礼乃、ヒグマ春夫(JAZZ ART せんがわ2018、バーバー富士)(JazzTokyo)(2018年)
石原雄治+山崎阿弥@Bar Isshee(2018年)
岩川光+山崎阿弥@アートスペース.kiten(2018年)

●ネッド・ローゼンバーグ 
ピーター・エヴァンス『House Special』(2015年)
エヴァン・パーカー US Electro-Acoustic Ensemble@The Stone(2015年)
エヴァン・パーカー ElectroAcoustic Septet『Seven』(2014年)
ネッド・ローゼンバーグ@神保町視聴室(2014年)
サインホ・ナムチラックとサックスとのデュオ(1993-96年)
ネッド・ローゼンバーグの音って無機質だよな(という、昔の感想)


ミシェル・ペトルチアーニ『One Night in Karlsruhe』

2019-06-05 20:43:17 | アヴァンギャルド・ジャズ

ミシェル・ペトルチアーニ『One Night in Karlsruhe』(Jazz Haus、1988年)を聴く。

Michel Petrucciani (p)
Gary Peacock (b)
Roy Haynes (ds)

ミシェル・ペトルチアーニは短い人生のすべてが全盛期のような気がする。これもまたペトの魅力全開である。

ちょっと愁いがありながらもとても強いアタックと、ぐいぐいとドライヴする速さ。ここでは「There Will Never Be Another You」「In a Sentimental Mood」「Embraceable You」「Giant Steps」「My Funny Valentine」とベタなスタンダードを演奏しているけれど、それは一瞬嬉しく思うだけで、スタンダードであろうとオリジナルであろうと魅力は変わらない。

ゲイリー・ピーコックはキース・ジャレットとやっているときと同様に、中音域で、裏から入って裏声のように歌う。ロイ・ヘインズの乾いたドラミングも気持ちが良い。よくこんな音源が眠っていたものだ。

●ミシェル・ペトルチアーニ
チャールス・ロイドの映像『Arrows into Infinity』(2013年)
マイケル・ラドフォード『情熱のピアニズム』 ミシェル・ペトルチアーニのドキュメンタリー(2011年)


ケルンのルートヴィヒ美術館とヴァルラーフ・リヒャルツ美術館

2019-06-05 07:52:18 | ヨーロッパ

ケルンの中央駅前にはルートヴィヒ美術館がある。ここのコレクションを日本で1995年と2010年に観ているのだが(2010年と1995年のルートヴィヒ美術館所蔵品展)、直接入るのははじめてである。そんなわけで感無量。

とは言え、いきなり強い印象とともに観たのはニル・ヤルタ―(Nil Yalter)の「Exile Is A Hard Job」展。ヤルターはトルコのフェミニスト・アーティストであり、彼女の最初の仕事のひとつがパントマイムであったり(50年代にインドやイランに入国している)、また、舞台芸術を手掛けたりと、模索的であり型にはまらない。この展示でも、難民たちの生活の写真や何台ものモニターによる映像、キルトによるテントなど、声なき声を先鋭的な声にするようで興味深い。割れたレコードを収集するなど音の記憶の可視化がまた面白い。

あとはコレクション。

アムステルダム市立美術館でも凝視することができた、ルーチョ・フォンタナの裂け目の立体構造。

ヨーゼフ・ボイスのインスタレーション。ふにゃふにゃの電動機がすべてを無力にする。

エドガー・エンデの30年代の作品。ナマで観るのは、昨年、ある法人の中に飾られていて驚いたとき以来である。この謎が謎のまま残された感覚が良い。

マックス・エルンストのフロッタージュ作品。日本での紹介の際、1995年には「月にむかってきりぎりすが歌う」、2010年には「月にむかってバッタが歌う」と訳されている。Sauterelleがきりぎりすなのかバッタなのかわからないが(ここではgrashopperと英訳されている)、いずれにしても、ぞわぞわとしたものが壮大なイメージを創出しており素晴らしい。

パブロ・ピカソの「草上の昼食」。ピカソはマネの傑作をもとにしてさまざまに発展させており、これはその中のひとつだろう。天才の換骨奪胎には笑ってしまうが、それは、もとのマネの絵が大きなイメージの源泉であったことも意味している。小さい頃に画集で観てもなにがおかしくて何が面白いのかピンとこなかったのだが、いや、オトナ向けの作品である。

次にコロンバ美術館に足を運んだのだが、残念ながら休館日。ヴァルラーフ・リヒャルツ美術館に入った。

展示は1階から3階まであり、それぞれ、中世、ゴシック、19世紀。受難や聖血や悪魔の絵などをたくさん凝視したあとに、ルーベンスやレンブラントの深みのある描写をいきなり目にすると、その特別さに驚くものだ。

そしてアルノルト・ベックリン。この過剰にドラマチックで運命的な世界がやはり世紀末である。もちろん中世から近代まですべてを地続きのヨーロッパとして観ていくべきなのだろうけれど。