Sightsong

自縄自縛日記

クレーフェのエフェリン・ホーファーとヨーゼフ・ボイス

2019-06-06 23:39:52 | ヨーロッパ

ダンスの皆藤千香子さんに教わって、クレーフェというオランダとの国境近くにある町のクルハウス・クレーフェ美術館を訪ねた。というのも、ここはヨーゼフ・ボイスが幼少期を過ごした町なのだ。

着いてみると実に落ち着いた田舎町で、観光客らしき人はあまり見当たらない。カフェにはお年寄り。これ見よがしではない大きな邸宅の壁の上は苔むしている。しばらく歩くと美術館が見えてくる。まずは中のカフェで林檎のケーキをいただいた(すごくうまいので、行った人は絶対に食べるように)。

この美術館も大きく、驚くほど多くの部屋が展示室になっている。それでも巨大な美術館のように半ばうんざりすることがないのが、古い建物の力である。

特別展は、エフェリン・ホーファーという写真家(Evelyn Hofer、ドイツ語読み)。わたしは知らなかったのだが、これはとても嬉しい発見だった。後で調べると、ドイツに生まれ、ナチから逃れてヨーロッパを転々としマドリッドに移るも、フランコの力が強くなってきてメキシコに逃れ、最後にはニューヨークに移住した女性である。

この人のスナップは極めて端正な構図を持っており、ピントも露出もプリントも素晴らしい。撮影技術は実に確かである。観ればわかる。そのことが写真のリアルさや迫真性やドラマ性を損ねる結果にはなっていない。それどころか、そのように視ようとする写真家の眼を如実に示す写真となっている。しっかりした、いい人だったんだろうなと思ってしまう。(関係ないと言われそうだが、関係はある。)

ブツ撮りも文句のつけようがない。たとえばマレーネ・ディートリッヒやフリーダ・カーロの遺品を撮影したシリーズがあるのだが、その職人としての水準の高さが芸術としての価値も高めている。同じフリーダの遺品を撮った石内都の作品には、前者が欠けていて、そのことが極めて残念だった。

そして目当てのヨーゼフ・ボイス。かれが撮られた写真にもボイスらしさが溢れている。作品はボイスであり、視られた顔もボイスであった。すなわち存在がボイスであった。

ドローイングもまたボイスならではのものだった。例えば、ランドスケープらしきスケッチがあるのだが、それは風景の写生でも、心象を形にしたものでも、またランドアートのようなものでもない。かたちや視線の動きが、ボイスの思想と不可分のものであるように思える。

ボイスは緑の党の創設に関わるなど、政治も活動の大きなテーマとしていた(というか、政治はかれにとって芸術と同じものだった)。経済が社会や芸術に重なり浸食してくることの問題点を指摘していたのだが、これは今となっては当然の視点に思える。しかし、アンドレス・ファイエル『ヨーゼフ・ボイスは挑発する』でも見られるように、当時は違和感のほうが大きいものであったようだ。この美術館に展示してある作品のひとつに、「Kunst = Kapital」と書かれたボードがある。芸術は資本である、この作品を同時代の人はどう受け止めただろう。

クレーフェの町には、中世にこの地の領主が建設したシュヴァーネンブルク(白鳥城)という大きなお城がある。3ユーロを払うと塔の上までのぼってゆける。中には写真や発掘物などが展示してあって、大戦で城も破壊されたことがわかる。つまり、戦後に復興がなされたのだった。ボイスも幼少期にこの城で遊んでいたという。

近くの教会を覗いてみた。皆藤千香子さんは以前にこの教会に入り、ボイスの発言として聞いたことを思い出し、体感したのだと話してくれた。すなわち、身体なのか、人生なのか、世界なのか、そういったものの中心は膝である、と、ボイスは言ってのけた。皆藤さんはその意図を不思議に思っていたが、教会で跪いて祈るとき、膝が中心になるのだと気が付いた、と。

わたしにもキリスト教の信仰はないのだが、跪いて祈った。普段しない動きであるだけに、意外に負荷の大きなことに驚いた。そして確かに膝が世界の中心にくるように思える。視える世界もまったく変わってくる。わたしはにわかで真似をしてみただけだが、とても興味深い。あるいは、身体の動きとはここまで日常に縛られているのだと逆に言うこともできるだろうか。思想と身体とは深くつながっている。

●ヨーゼフ・ボイス
1984年のヨーゼフ・ボイスの来日映像
アンドレス・ファイエル『ヨーゼフ・ボイスは挑発する』
ミヒャエル・エンデ+ヨーゼフ・ボイス『芸術と政治をめぐる対話』
ケルンのルートヴィヒ美術館とヴァルラーフ・リヒャルツ美術館
ロサンゼルスのMOCAとThe Broad
ベルリンのキーファーとボイス
MOMAのジグマー・ポルケ回顧展、ジャスパー・ジョーンズの新作、常設展ペーター・コヴァルト+ローレンス・プティ・ジューヴェ『Off The Road』
ペーター・コヴァルトのソロ、デュオ


マイケル・サイモン『Asian Connection』

2019-06-06 21:35:17 | アヴァンギャルド・ジャズ

マイケル・サイモン『Asian Connection』(NBT Records、2017年)を聴く。

Michael Simon (tp, flh)
MinYen "Terry" Hsieh 謝明諺 (ts, ss)
Chung Yufeng 鍾玉鳳 (琵琶)
Michael Veerapen (p)
Daniel Foong (b)
John Ashley Thomas (ds)

ヴェネズエラ出身のトランぺッター、マイケル・サイモンに、台湾の雄・謝明諺。鍾玉鳳もまた台湾の琵琶奏者。ピアノトリオはマレーシアの面々かな。そして演奏場所はクアラルンプールの素晴らしいNo Black Tie(いちど行ったが親密で再訪したい良い空間)。

多国籍だからと言って、突飛なサウンドではない。むしろ良いアレンジで落ち着いた演奏であり、テリーさんのサックスなどはメロウと言ってもいいほど巧みである。アンサンブルはもとより、琵琶の存在が全体をつなげている感がある。普段着の異種交流か、こんなときにビール片手にNo Black Tieにいたら忘れられないだろうね。

●謝明諺
陳穎達カルテットの録音@台北(2019年)
東京中央線 feat. 謝明諺@新宿ピットイン(2018年)
謝明諺+大上流一+岡川怜央@Ftarri
(2018年)
謝明諺『上善若水 As Good As Water』(JazzTokyo)(2017年)


ゼイディー・スミス『美について』

2019-06-06 11:20:06 | ヨーロッパ

ゼイディー・スミス『美について』(河出書房新社、原著2005年)を読む。

2段組500頁の分厚い小説なので読むのにずいぶん時間がかかった。しかしどこもかしこも面白くてツボを突いてくるのでまったく飽きない。

リベラルなアメリカのハワード家と、保守的なロンドンのキップス家。父親同士は不倶戴天の敵であり近寄らなければいいものを、運命がそれを許さない。ハワードの純情な青年、なぜか極端に奔放になってしまった青年、皮肉しか言わず人を褒めることのないクソのような父親、洞察力が鋭い妻。キップスの、やはりクソのような学者の父親、男と遊びまくっている娘。なぜかそれぞれに自分を見出していちいち感情移入してしまう。

ことばで個性を形にしていくことが希薄な日本社会と違う点も、刺さるのかもね。

●ゼイディー・スミス
ゼイディー・スミス『The Embassy of Cambodia』
(2013年)


ブリュールのマックス・エルンスト美術館とジョアナ・ヴァスコンセロス

2019-06-06 10:44:17 | ヨーロッパ

ケルンのエミさんから、マックス・エルンストが好きならブリュールという町にエルンスト美術館があると教えていただき、ボンに行く前に立ち寄った。確かに田舎町だが駅前にあって不便はない。

特別展はポルトガルのジョアナ・ヴァスコンセロス(1971年生)。レースでテレビや犬が梱包されている。飾り立てることと身体への過度の負担が女性の置かれたポジションなのであり、それをこのように痛いほどに提示されると圧倒されてしまう。中でも、深紅の大きなレースの心臓がぐるぐる回るインスタレーションなんて命そのものだ。ヴァスコンセロスはエルンストのヴィジョンにも影響を受けたようであり、それゆえのこの美術館での展示か。

エルンスト作品のコレクションはさすがである。

コラージュ作品は無関係が関係を持たされているという点でシュルレアリスムのカテゴリーに(歴史的に)はまるものであり、凝視すればするほど笑える。『百頭女』『カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』『慈善週間:あるいは七大元素』の3冊は河出文庫版で観てきたけれど、これは大きなサイズで観るべきものだ。

わたしがもっとも愛するエルンストのスタイルはフロッタージュであり、それが20年代のフランス時代から模索を経て、完成どころか向こう側に突き抜けてしまう様子がわかる。九龍城的、生物のコロニー的でもあるが、こちらの理解を拒絶する異星の生物的でもある。

それらの宇宙的なヴィジョンは、コラージュやフロッタージュよりも立体作品において主張されている。もちろんユーモラスで笑えるのだけれど、ここまで執拗に提示されると、かれだけに感知できる宇宙的メッセージがあったのではないかと夢想してしまう(危ない、危ない)。エルンスト作成のチェスセットなんて欲しい。

●マックス・エルンスト
ケルンのルートヴィヒ美術館とヴァルラーフ・リヒャルツ美術館
2010年と1995年のルートヴィヒ美術館所蔵品展
ペーター・コヴァルトのソロ、デュオ


リューダス・モツクーナス『Hydro 2』

2019-06-06 00:01:25 | アヴァンギャルド・ジャズ

リューダス・モツクーナス『Hydro 2』(No Business、2017年)を聴く。

Liudas Mockūnas (soprano, water prepared soprano and water prepared keyless overtone saxophones)

LP時間の46分ほど延々と続くサックスソロである。

というと簡単だが、何をやっているのかよくわからない。確かにタイトルやジャケットの通り、ソプラノのベルを水に漬けて吹いている。しかしそれ以外が奇怪。もちろんマルチフォニックも循環呼吸も巧みなのだが、声を吹き込んだり、周波数も連続的に変化させたり、管に不協和音を立てさせたり、タンギングをしなやかにも強靭にも使いながら大きくうねるように吹いたり(2018年のライヴでは共演した梅津和時氏が驚いていた)、喉も鳴らしたり。あとは観ないとわからないし、観てもわからないだろう。

謎な人だが演奏以外のときには至って紳士的で真面目である。また来日しないかな。

●リューダス・モツクーナス
リューダス・モツクーナス+大友良英+梅津和時@白楽Bitches Brew(JazzTokyo)(2018年)
「JazzTokyo」のNY特集(2015/12/27)
ウラジーミル・タラソフ+エウジェニュース・カネヴィチュース+リューダス・モツクーナス『Intuitus』(2014年)