前衛集団「具体」の会員だったからといって、今井祝雄には、吉原治良、白髪一雄、田中敦子、村上三郎のようにマテリアルや肉体での世界への働きかけといった面はない。むしろ世界との関わりを醒めた眼で一歩引いて眺めつつ、関わりを棄て去れない自分を作品として昇華させているような感覚。
それは記録媒体そのものやそれが捉える具体性への固執にもつながっていて、何年間もの毎日の自撮りを並べた《デイリーポートレート》では河原温を、また歩いた経路を地図に記録しつつ写真を撮る《ウォーキング・イベント 曲がり角の風景》ではポール・オースターの『ガラスの街』を思い出させてくれた。どちらも世界との関わりを切実に求めた作家であったし、一見白けたような今井祝雄にもそのようなものを感じた。
同じ場所で赤信号と青信号のときに露光する《時間の風景/阿倍野筋》だってアイデア一発ではなく、信号に接するときの時間という個人的な体験が普遍化している。