NHKで1979年3月23日に放送された『イザイホー~沖縄の神女たち~』が、先日、再放送された。1978年12月14日からの5日間行われた、久高島の祭・イザイホーの記録である。女性たちが神女になるための通過儀礼であり、12年に1回行われてきた。しかし、過疎が進み(この前回の1966年には600人、このとき370人、現在200人)、久高島の両親を持つ30-41歳の女性という資格を満たす人がいなくなってきて、このときが最後の開催となった。
なお、この1978年のイザイホーは、『沖縄久高島のイザイホー(第一部、第二部)』(1979年)というドキュメンタリーにもなっており(科学映像館が無料配信、>> リンク)、比べてみると、フィルムとヴィデオとの映像の違いは置いておいても、テレビ番組としての落とし所を提示していることが異なる。故・比嘉康雄も、写真において貴重な記録を残している。
1966年にさかのぼると、野村岳也『イザイホウ』(1966年)という白黒映像が残されているほか(>> リンク)、岡本太郎も訪れて写真を残している。もっとも、まるで土足で踏み入って独自の説を展開した岡本太郎については、いまだ沖縄において批判の声が受け継がれている。
この番組では、祭祀を司る者が女性であることをことさらに強調しているようだ。それも、一般論として、原始の祭祀は女のものであったというように、「かつて祭の主役は女たちであった・・・しかし、武力によって人びとを支配することが行われるにつれて、祭の中心は男になった」との語りを挿入する。久高島の女系社会を論じた吉本隆明『共同幻想論』が1968年、その文脈も意識していたのだろうか。
さて、番組では、まず、アマミキヨの琉球開闢神話や、土地の私有禁止・過疎、久高ノロ・外間ノロを頂点とした神組織など、久高島の特徴を手短に説明する。久高ノロこと安泉ナヘさん(当時77歳)、外間ノロこと内間カナさん(当時68歳)の姿がある。琉球王国では、ノロは村あたりにひとりであったが、明治政府が久高島がふたつの村をひとつにまとめたという経緯があるようだ。
そして、イザイホーについて映像を使って示されていく。神女になるナンチュ(30-41歳)は、洗い髪に白装束で「御殿庭(ウドンミャー)」に集まり、甲高い声で「エーファイ、エーファイ」との声をあげながら、「七つ橋」を渡り、クバの葉で覆われた「神アシャギ」に入っていく。この世から神への橋である。その先の「七つ家」に三日三晩籠り、出てきたときには、男の神・根人(ニーチュ)が、それぞれのナンチュの額と両頬に赤い印を付け、そこにノロが「スジ」という白い団子を押し付ける。これによってナンチュは神女となる。
4日目には、神女たちと一般の男たちが、一本の綱を向かい合って持ち、舟をこぐように押し引きする(「アリクヤーの綱引き」)。このとき男たちは「ヤーシコーネーラン」(ひもじくはない)と言い、神女たちはおもろで返す。これが、豊漁豊作に対する感謝なのだという。
テレビ的なのが、イザイホー前後で、ひとりのナンチュにインタビューしていることだ。その女性は、イザイホーを経た後では、「神様がいらっしゃる」、今までは好きではなかったが、これで「大きく振る舞える」と語っている。実際のところどうであれ、これはテレビ番組としての「落とし所」ではあろう。
コメンテイターとして登場する女性史研究家は、イザイホーが島の女性たちを取りまとめる「統制機関」であったのだろうと述べている。祭祀における女性の価値を強調する勢いでの発言だったが、琉球における権力構造も関連していたものかとも思わされた。吉本隆明が喝破したのは女系社会についてだけではない。久高島の琉球開闢神話は、ヤマトゥにおける記紀神話と同様に、権力を支えるものとして位置づけられるのである。
斎場御嶽から望む久高島(2005年) ミノルタオートコード、コダックポートラ400VC
●久高島
○久高島の映像(1) 1966年のイザイホー
○久高島の映像(2) 1978年のイザイホー
○久高島の映像(3) 現在の姿『久高オデッセイ』
○久高島の映像(4) 『豚の報い』
○吉本隆明『南島論』
○久高島の猫小(マヤーグヮ)
○久高島で記録された嘉手苅林昌『沖縄の魂の行方』、イザイホーを利用した池澤夏樹『眠る女』、八重山で演奏された齋藤徹『パナリ』