ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー 資本主義と分裂症』(下)(河出文庫、原著1980年)を読む。この長い言葉の爆弾を、ようやく最後まで読むことができた。
最後の3章は国家のありように迫っている。内部空間の形式を構成する<国家装置>はパワーゲームの結果形成されるものではなく、最初から常にそこにあるものだとする。静的な存在というより、自己同一的なものとして再生産されるものとして。終滅することがない<帝国>の支配との闘いを描いた怪作、フィリップ・K・ディック『ヴァリス』を思い出してしまう。
「<帝国>と闘うことはその錯乱に感染することにひとしい。これはパラドックスである。<帝国>の一部をくつがえす者は、誰であろうと<帝国>になる。<帝国>はウイルスのように急激に増殖し、その形態を敵に押しつける。それによってみずからの敵となる。」
― フィリップ・K・ディック『ヴァリス』
「すべてが国家というわけではない、しかしそれはいつでもいたる所に国家が存在したからである。国家を前提にするのはエクリチュールだけではなく、言葉も言語も言語活動も、すべて国家を前提にしている。」
<国家装置>に内包されることのない<戦争機械>、<遊牧的>という概念。これを、国家間の戦争と捉えてはならない。決して条理空間に位置づけられることなく(すなわち資格を持たず)、速度を持ち、絶えざる変身を遂げ、情動により駆動される、そのような外部性たる<戦争機械>が戦争という形式を取るのは、<国家装置>がそれを捕捉したときである。エクリチュールも音楽も<戦争機械>に包まれる(!)
「国家が戦争機械のこの次元をわが物にするときは、必ずそれを文民的な計量的諸規則に従属させ、その適用範囲を狭く限定することによって管理し、社会領野全体にその影響力が拡大することを禁止する」
これは絶えざる軋轢を生むとされる。遊牧的な存在は常に国家の一器官に押し込めようとされ、自立性が奪われるが、遊牧的な存在は絶えず特異な、新しいものを打ち出し、<逃走線>を描くからである。それは知的労働でもあり、絶えざるマイノリティ化(静的に定められた「マイノリティ」たる立場ではない)である。支配-被支配の条理的関係を解体し続ける存在、それならば、辺野古も高江も祝島も遊牧的であり、それにとどまらず、マルチチュードは遊牧的であるということができる。もっと言えば、特定の抵抗のみならず、私たちは遊牧的な存在を志向し、生成変化たるべきなのである。
「マイノリティの力能は、マジョリティのシステムの中に入り自己主張する能力によっても、必然的に同語反復的なマジョリティの基準を転倒する能力によっても測られるものではなく、どのように小さなものであれ、数えられない集合の力を数えられる集合の力に対して際立たせることによって測られる。」
●参照
○ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(中)
○ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(上)
○ジル・ドゥルーズ『フーコー』
○フェリックス・ガタリ『三つのエコロジー』
○フィリップ・K・ディック『ヴァリス』