Sightsong

自縄自縛日記

衆院選

2012-12-17 00:20:08 | 政治

悔し紛れに昼から夜のツイッター再録。https://twitter.com/Sightsongs

田村理 『国家は僕らをまもらない』(朝日新書、2007年)は、日本国憲法の位置づけを、「ほっておくとろくなことをしない」国家権力に対して制約を加えるものだと明言している。このストッパーを外そうとしているのが改憲勢力。

菅首相が福島第一原発の冷却水を止めたという話は安部氏による虚偽情報だった。民主党の偽メール事件の際には全メディアが議員を非難したにも関わらず(のちに議員は自殺)、これについて責任追及の声はメディアからは出てこない。

北朝鮮を遂に戦争のターゲットとする愚かさ。彼らは時が来れば戦犯とみなされるだろう。「日本側代表団は、拉致問題に対するマスメディアの反応に強い影響を受けた。「相手に向かって机を叩いて怒鳴ってりゃいいだけでした」と交渉担当者は語っている。」

日本国憲法は、国家が規定した法ではなく、国家権力に規範を与えるために存在する。(柄谷行人『政治と思想 1960-2011』)

前回安部政権時に、対北朝鮮強硬姿勢をさらに過激化しようとしていたところ、水面下で北朝鮮と交渉していた米国に梯子をはずされ、直後に安部首相は辞任(豊下楢彦『「尖閣問題」とは何か』)。あんな戯画的なタカ派の主張は国を滅ぼすのみ。

「リアリズムのない 「現実主義」という滑稽な姿は勿論維新の精神とは無縁である。」藤田省三

勿論、自民党にリアリズムなど無い。大きなヴィジョンを掲げて実行できなかった民主党は力不足だったが、だからといって自民党が真っ当だということには決してならない。

結局、多くの有権者は雰囲気とか見てくれとか、白痴的な投票しかしないんだな。政策のことを考えるのはタブーであるかのように。どれだけ我が身に危険が迫っているか微塵も想像できずに。しかし、必ず再び決定的な揺り戻しがあるだろう。反撃はむしろこれからだ。

民主もなにも、民が無いんじゃ民主主義などあり得ない。というとニヒリズムか。

いずれ、憲法改正とか国防軍とか中国・北朝鮮との戦争とか言論統制とか基本的人権の軽視とか、そんなわかりきった矛盾が顕在化してきて、多くの人が「気がつく」。反撃はそのときだ。

菅原琢『世論の曲解』より:「(自民党は)…結局、民主党政権の失政を待つしかないだろう。もちろん、ただ待つだけでなく、そのときに受け皿となるべく、党を刷新し、人を入れ替え、有権者が投票したくなる政党として存在している必要がある。」後半をどう読むか。


セシル・テイラー『In Florescence』

2012-12-16 09:33:35 | アヴァンギャルド・ジャズ

セシル・テイラーのピアノトリオというと、ほとんどはサックス、ドラムスとの編成であり、ベース、ドラムスとの形はとても少ない。『In Florescence』(A&M、1989年)が出た頃、かなり新鮮に見られたのではなかったかと記憶している。

ウィリアム・パーカー(ベース)、グレッグ・ベンディアン(ドラムス)というメンバーである。同時期に編成された「The Feel Trio」では、ドラムスにトニー・オクスレーを迎えているが、パーカーは共通。パーカーのファンとしては、おそらく、テイラーは彼のベースを取り込みたかったのではないかと想像してみる。

もう一度聴きたいと思っていたところ、未開封の中古盤を見つけた。

Cecil Taylor (p, voice)
William Parker (b)
Gregg Bendian (per)

すべて短めの演奏が、テイラーの奇妙なポエトリーリーディングや叫び声・擬態声からはじまる。

期待にたがわず、パーカーの柔軟かつ重量級のベースが、テイラーの硬い結晶のように煌めくピアノとがっぷり四つになって、パフォーマンスが展開していく。ベンディアンはどちらかというと軽やかなのかな。トニー・オクスレーが叩く盤と聴き比べてみたい。

テイラーは、ピアノソロでは長尺な演奏から目が眩むようなクリスタルの山脈を創り出す。サックスとのコラボレーションでは、いつ切れるかわからないほどのテンションを保ち、いくつものクライマックスに向けて音塊を放出し続ける。それに比べ、これは風のようで、何だか素晴らしいものが示されていると思っているうちに演奏が終わる。

●参照
セシル・テイラー『The Tree of Life』
1988年、ベルリンのセシル・テイラー
ドミニク・デュヴァル+セシル・テイラー『The Last Dance』、ドミニク・デュヴァル+ジミー・ハルペリン『Monk Dreams』
セシル・テイラー『Dark to Themselves』、『Aの第2幕』
セシル・テイラーのブラックセイントとソウルノートの5枚組ボックスセット
イマジン・ザ・サウンド(セシル・テイラーの映像)


マーティン・スコセッシ『レイジング・ブル』

2012-12-15 22:46:06 | スポーツ

マーティン・スコセッシ『レイジング・ブル』(1980年)。中古DVDを500円で入手した。

元ボクシング世界ミドル級チャンピオン、ジェイク・ラモッタの映画化である。時代は主に1940年代から50年代。ラモッタは「怒れる牡牛(レイジング・ブル)」の渾名の通り、ワイルドなスタイルで闘った。伝説的なシュガー・レイ・ロビンソンとのファイトも再現されている。

映画はドキュメンタリー風のつくりであり、ラモッタの人間的な側面や弱さを押しだしたものだった。NYの顔役たちとの付き合い、嫉妬、DV、離婚、ショービジネス。

さすがのスコセッシ、完成度が高く充分に面白いのではあるが、どうも巧みすぎる似非ドキュメンタリーが気にいらない。破綻のない予定調和のドキュメンタリー「風」なんて何の意味があったのか。

当時のカメラはやはりスピードグラフィックなどの大判がほとんどだ。ウォーレンサックのラプター127mmF4.5というレンズがアップになる場面がある。中途半端な焦点距離なのではなく、単に5インチというだけである。調べてみると、同スペックで、戦後レンズが足りなかったライカにLマウントレンズを供給したり、引き延ばし用レンズとして売ったりもしていたらしい。このような米国レンズもちょっと使ってみたいが、どんな感じだろう。

●参照
マーティン・スコセッシ『ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト』、ニコラス・ローグ+ドナルド・キャメル『パフォーマンス』
鈴木清順『百万弗を叩き出せ』、阪本順治『どついたるねん』(ボクシング映画)
勅使河原宏『ホゼー・トレス』、『ホゼー・トレス Part II』(ボクシング映画)


相倉久人『至高の日本ジャズ全史』

2012-12-15 13:32:51 | アヴァンギャルド・ジャズ

相倉久人『至高の日本ジャズ全史』(集英社新書、2012年)を読む。

「全史」というタイトルを掲げてはいても、著者が語る時代は1970年のことまでだ。その間、著者は、日本のジャズと並走し、牽引し、刺戟し、そして評論する。

その反骨精神というのか、まさに楽器を持たないで演るジャズマンぶりは凄い。電車賃もないような状況で、である。平岡正明間章のようなアジテイターとも異なり、オーガナイザーという言葉にも収まらない感がある。この人によるジャズ評論とは、何かの権威化を行いそれに依拠するようなものではなく、ジャズマン本人ですら考えていないような意味を考えぬき、言語化するものであった。

著者は穐吉敏子を厳しく批判する。米国の一流どころで成功を収めるものの、それはジャズの本場のお墨付きを求めてのことであり、日本におけるジャズの追求に寄与しなかったからだ、と言いたいようだ。そのような形ではなく、日本において、土着化し、日本でしかできないジャズを打ち出す革命的音楽家たち、たとえば山下洋輔のことを高く評価する。

いずれにしてもひとつの同時代史である。生々しく面白い。あっという間に読んでしまった。こんな時代のジャズ勃興を目撃したかったな。

●参照 ジャズ評論
田中啓文『聴いたら危険!ジャズ入門』
横井一江『アヴァンギャルド・ジャズ ヨーロッパ・フリーの軌跡』
リロイ・ジョーンズ(アミリ・バラカ)『ブルース・ピープル』
藤岡靖洋『コルトレーン』
平岡正明『ジャズ・フィーリング』に触発されてレスター・ヤングを聴く
ローラン・ド・ウィルド『セロニアス・モンク』
中央線ジャズ
『A POWER STRONGER THAN ITSELF』を読む(1)


旨い札幌

2012-12-15 09:50:41 | 北海道

狸小路近く、「GARAKU」でスープカレー初体験。というのも、仕事前だとワイシャツやネクタイにカレーが飛びそうで嫌だったからなのだが、別に、気を付ければいいだけの話である。「やさい15品目大地の恵み」、980円。

夜、17時の開店早々に「だるま」に突入。雪が積もっているなか、既に7人くらいが並んで待っていた。久しぶりにつららを見た。

ここのジンギスカンは生マトンで、あっさりとしていてペロリ。ひとり客も居て良い感じ。


室謙二『非アメリカを生きる』

2012-12-15 09:07:20 | 北米

札幌への行き帰りに、室謙二『非アメリカを生きる ―<複数文化>の国で』(岩波新書、2012年)を読む。

20世紀初頭にひょっこりと現れたネイティブアメリカンの男。スペイン市民戦争に大義を抱いて参加した米国人やひとりだけの日本人。マイルス・デイヴィス。仏教を自らのものとしたジャック・ケルアックゲイリー・スナイダーなどのビートニクス。米国に生きるユダヤ人。

その誰もが、<非アメリカ>的でありながら、<アメリカ>を形成する。

フランコ将軍の軍部に蹂躙されつつあったスペインへは、他の西欧諸国も、米国も、市民の渡航を禁じた。いかにファシズムが台頭しようとも、共産主義が力をつけてくるのを嫌ったためだった。その状況下で、イデオロギー的な知識や戦争のノウハウが皆無でも、正義と理想に駆り立てられて密航した人々がいた。このことは、<個>を信じて再び声をあげるいまの状況に似ているのかもしれない。

マイルス・デイヴィスは、自らが黒人であることを強烈に主張しながら、民族や音楽のジャンルの壁を壊し続けた。

ビートニクスたちが解釈し、実践した<禅>は、真似でも紛い物でもなかった。著者はこう言う。日本に生れて体制や伝統に組み込まれている仏教を近くに感じていたからといって、その者が真の仏教の中に在るということにはならない。日本の仏教は、戦争に加担さえしていた。米国の仏教は、デモクラシーの仏教である。このような伝播こそ、仏教の伝統である―――と。真っ当な主張である。

面白い指摘がある。2011年7月の調査によると、米国では、1歳未満の幼児における非白人(ヒスパニック、黒人、アジア人など)の比率が、はじめて白人の比率を超えたのだという。将来、確実に米国は、マジョリティのない複数民族国家となる。

政治やネイションの言説に絡め取られるのではなく、さまざまな声を聴きとろうということだ。

●参照
尾崎哲夫『英単語500でわかる現代アメリカ』
吉見俊哉『親米と反米』
成澤宗男『オバマの危険 新政権の隠された本性』を読む
スペイン市民戦争がいまにつながる
ギレルモ・デル・トロ『パンズ・ラビリンス』(スペイン市民戦争)
マイルス・デイヴィスの1964年日本ライヴと魔人


鉄ペン

2012-12-13 00:29:47 | もろもろ

ペン先がスティールの万年筆は、金のものに比べれば、まるで柔らかくはなくてサリサリの書き味である。うまくいけば、油性やゲルインクのボールペンよりも快適に、しかも精細な字を書くことができる。しかし、当たりはずれがあるようだ。

ファーバーカステル(ドイツ)の「ルーム」。つくりが細やかで、キャップが尻に気持ちよくはまる。書き味もなかなか。

ラミー(ドイツ)の定番「サファリ」。大きなクリップや面落としした軸など、モダンデザインそのものだ。

すぐにかすれたりしてあと少しでゴミ箱行きだったが、ペンクリニックで診てもらったところ、かなり改善された。

無印良品の千円のアルミ製万年筆。「シンプル・イズ・ザ・ベスト」とはこのことか。つるつる書けて悪くない。ただ、やはりつくりは今ひとつで、キャップを尻にすっきりはめることができない。どうやらOHTOのOEMらしい。ペン先はドイツ・シュミット製。

『サライ』2012年5月号の付録。気がついたときには雑誌が書店から姿を消していて、ネットオークションにて数百円で入手した。ペン先に「HERO」の文字があり、中国の英雄製だとわかる。いまは、ラバンのインク「ビルマの琥珀」を入れ、手帳に仮の用事を書き入れるときなどに使っている。

これもつくりが粗雑で、すぐに軸のネジがゆるむ。また、突然インクが漏れ、大変な思いをした。

『Goods Press』2013年1月号の付録。味もそっけもないが、見た目以上の出来。中国製。

これは吃驚、『MonoMax』2013年1月号の付録は、COACHの万年筆。クリップが根元から動くなど、よくできている。

もう鉄ペンは要らないかな?

●参照
万年筆のペンクリニック
行定勲『クローズド・ノート』(万年筆映画)


宮崎の照葉樹林

2012-12-11 00:34:56 | 環境・自然

先日足を運んだ宮崎では、西米良村や木城町で多くの照葉樹林を見た。本当に気持ちが良かった。照葉樹林帯で有名な綾町も近い。

もちろん画一的な植林がなされた場所もあって、そこははっきりと色分けされていた。

樹木という生き物は見れば見るほど奇妙。


木城町


木城町


木城町


西米良村

●参照
只木良也『新版・森と人間の文化史』
そこにいるべき樹木(宮脇昭の著作)
東京の樹木
小田ひで次『ミヨリの森』3部作
荒俣宏・安井仁『木精狩り』
森林=炭素の蓄積、伐採=?
『けーし風』2008.3 米兵の存在、環境破壊(やんばるの林道についての報告)
堀之内貝塚の林、カブトムシ
上田信『森と緑の中国史』
沖縄の地学の本と自然の本
熱帯林の映像(着生植物やマングローブなど)
やんばる奥間川
イタジイ(ブロッコリーの森)
鳥飼否宇『密林』


豊下楢彦『「尖閣問題」とは何か』

2012-12-09 09:23:03 | 中国・台湾

豊下楢彦『「尖閣問題」とは何か』(岩波現代文庫、2012年)を読む。

石原都知事(当時)が扇動し、日本政府が購入した島は、魚釣島、北小島、南小島の3島。しかし、大正島と久場島は対象に含まれていない(本書の表紙も久場島)。それはなぜか。この2島が、射撃場として日本政府から米軍に提供されているからである(数十年も使われていない)。

すなわち、米国にはひたすらに追従する姿勢であり、このことは、さして活発な軍事活動を行うわけでない横田基地(多摩地域)のために、成田・羽田ともに大きく迂回して離着陸せざるを得ず、それを放置し続けている姿勢とも共通する。

著者は、石原知事の目的が、主権を守ることなどにあったのではなく、ただ中国を怒らせることにあったのだとする。すなわち、現在の軋轢は、結果ではなく目的であった。子供じみたマッチョな行動により国家主権を危機に陥れ、予想されたはずの日本経済への打撃を敢えて呼び込むことは、普段謳っている国益や国家主権とはまったく逆ベクトルである。これは、米国の意向に必要以上に沿ったものであった。

本書の主張は、尖閣問題は米国問題に他ならないということだ。米国は、戦後、敢えて曖昧な態度を維持することによって日中間に緊張を作りだし、世界への影響力をいかに大きくするかということにのみ腐心してきた。北方領土も同様に、解決せず日ソが接近しないような仕組であった。そしてまた、革命後のイランを牽制するためにサダム・フセインを育て、アフガニスタンのソ連勢力に対抗するためにオサマ・ビン・ラディンを育て、彼らがモンスターと化したら敵として攻撃する。

これこそが、米国の「オフショア・バランシング」の本質だというわけである。そして日本は、米国のマッチポンプたる湾岸戦争やアフガニスタン攻撃に、国際貢献と称して乗ってきた。いままた、北朝鮮の「ミサイル」の脅威が喧伝されるのも、同じ文脈でとらえられる。

著者は、そのように米国の意向を必要以上に汲むという硬直化した方針によってではなく、ひとつずつ問題を現実的に片付けていくしか、日本の生き残りの道はないとする。まったくの同感である。ならば、中国、韓国、北朝鮮の脅威をひたすらに煽り、軍備増強を狙い、米国を「親」として位置づけるような政治家たちが伸長してしまっては、日本がさらなるダメージを受けることは確かだ。

良書。ぜひ多くの人に読んでほしい。

●参照
孫崎享『日本の国境問題』
朝まで生テレビ「国民に"国を守る義務"が有るのか!?」
斎藤貴男『東京を弄んだ男 「空疎な小皇帝」石原慎太郎』
ダイヤモンドと東洋経済の中国特集
国分良成編『中国は、いま』
天児慧『中国・アジア・日本』
『世界』の特集「巨大な隣人・中国とともに生きる」
『情況』の、「現代中国論」特集
堀江則雄『ユーラシア胎動』
L・ヤーコブソン+D・ノックス『中国の新しい対外政策』
2010年12月のシンポジウム「沖縄は、どこへ向かうのか」


パク・チャヌク『オールド・ボーイ』

2012-12-09 00:44:41 | 韓国・朝鮮

パク・チャヌク『オールド・ボーイ』(2003年)を観る。

喋り過ぎる男、オ・デスは、突然拉致され、狭い部屋に15年間も監禁される。解放され、復讐を誓うデス。しかし行く先々で、犯人がゲームのようにデスを誘導していた。

ミステリーとしても、奇妙なコメディとしても、アクションとしても秀逸。俳優たちの顔の映画でもある(唐突さが実相寺昭雄を想起させる)。

プロットを脳内で繰り返しながら思いついたこと。登場人物たちが、実は過去からの運命の糸によって行動していたのだとする展開は、『イルマーレ』『あなたの初恋探します』にもあった。韓国映画のひとつの面白さか。(あまり観ていないので思いつきだが。)


北井一夫『いつか見た風景』、『過激派』

2012-12-08 08:45:48 | 写真

東京都写真美術館で開かれている北井一夫個展『いつか見た風景』に、足を運んだ。美術館での北井さんの個展ははじめてだということだ。最初期『抵抗』から、最近の『ライカで散歩』までをたどったものとなっている。

『抵抗』、『過激派』、『バリケード』は、1960年代末の学生運動・市民運動を捉えた作品群。意図して使われたという、フィルムや印画紙の傷・むらが、確かに効果を見せている。バリケード内の洗面台やヘルメットやトイレットペーパーなどを撮った写真は、今となってみれば、そういったモノの佇まいを見つめる北井写真の萌芽のようでもある。

クロノジカルに観ていくと、『三里塚』『村へ』の時期に、写真の肌理がじわじわと変貌していくようだ。攻撃的な硬いトーンから、グレートーンへ。肩から入る写真から、人や日常と向き合う写真へ。そこには柔らかいライカレンズの特質も貢献している。

『いつか見た風景』『村へ』にある日本の田舎を凝視していると、文字通り、胸がしめつけられる。自分も片田舎で育ったからかもしれない。こういった人や生活が田舎にはあった。また、『1990年代北京』の土埃がたゆたう風景は、自分のものではない。しかし、そこにも懐かしさが横溢している。その気持ちを共有できることに、写真という記憶の奥深さを感じざるを得ない。

マクロ撮影に凝ってすぐに飽きてしまったという『おてんき』を観るのははじめてだ。ああ、盤洲干潟も撮っている。さすがに巧い。

『境川の人々』、『フナバシストーリー』のプリントを観るのは久々である。浦安の境川はすぐ近くだが、あまり変わっていないところもある。ぜひ新たに印刷した写真集を出してほしい。

とにかく、期待を超える素晴らしさだった。

会場に置かれたノートには、元機動隊員が「三里塚で機動隊に参加していました」というもの(!)や、中国からの客が「徐勇さんが宜しくお伝えくださいとのことでした」というもの(!)もあった。

ところで、今回展示されている『神戸港湾労働者』(1965年)と『過激派』(1965-1968年)は、現在、別のギャラリーでも展示されている。六本木のZen Foto Galleryに立ち寄り、その『過激派』を観た。同じ写真もあるが、違う場所でじっくり集中して観ることができることは嬉しい。フィルムの傷というマチエールもまた凄い。

会場で販売されている写真集は正方形。奇妙にトリミングしてあり、やや黒のしまりが甘い。奇妙に思っていたが、写真美術館の図書館で、持っていない北井さんの写真集を閲覧していたのでわかった。『抵抗』の体裁やつくりに似せ、続編として出しているのだった。確かにサブタイトルにも「北井一夫作品集2」とある。

●参照 北井一夫
『神戸港湾労働者』(1965年)
『1973 中国』(1973年)
『遍路宿』(1976年)
『境川の人々』(1978年)
『西班牙の夜』(1978年)
『ロザムンデ』(1978年)
『ドイツ表現派1920年代の旅』(1979年)
『湯治場』(1970年代)
『新世界物語』(1981年)
『英雄伝説アントニオ猪木』(1982年)
『フナバシストーリー』(1989年)
『Walking with Leica』(2009年)
『Walking with Leica 2』(2009年)
『Walking with Leica 3』(2011年)
中里和人展「風景ノ境界 1983-2010」+北井一夫
豊里友行『沖縄1999-2010』


ジョナス・メカス(8) 『ファクトリーの時代』

2012-12-07 23:58:53 | 小型映画

ギャラリー「ときの忘れもの」にて、『ファクトリーの時代』(1999年)を観る。

手持ちのぐらぐら揺れるヴィデオカメラで、メカス自らの呟きとともに、周囲を、呟く自分の顔を、撮る。このスタイルは、近作の『グリーンポイントからの手紙』(2004年)でも、『スリープレス・ナイツ・ストーリーズ 眠れぬ夜の物語』(2011年)でも、同じだ。

かつての16mmのボレックスがヴィデオカメラに替わっただけではない。勿論、ぐらぐら揺れるカメラ、露出の過不足、ピンボケなどは昔も今も同じである。しかし、決定的な何かの違いがある。フィルムによる多くのフッテージを寝かせ、小間切れにして編集し、呟きをかぶせるというスタイルが、同録で長めのフッテージをつなげるというスタイルに替わったことが、映像のアウラも異なったものにしてしまっていると思える。精神の自由さはますます増しているようにも思える。

ファクトリー」とは、1964年頃からの、アンディ・ウォーホルが中心となった活動場所だった。この映画は、ファクトリーについてメカスたちが思いだし、語るものとなっている。それに耳を傾けていると、いかに自由で、過激で、人間的な活動であったのかということがわかってくる。なかでもメカスが強調するのは、さまざまな人の間をつなぎあわせたバーバラ・ルービンという女性の存在だった。

ただの思い出話ではない。過去であれ現在であれ、外に開かれたメカスの精神が、映像の魅力を生んでいる。

今月末に、メカスは90歳になる。ギャラリーがメカスに送るというメッセージカードに、自分も署名を書き入れた。

●参照
ジョナス・メカス(1) 『歩みつつ垣間見た美しい時の数々』
ジョナス・メカス(2) 『ウォルデン』と『サーカス・ノート』、書肆吉成の『アフンルパル通信』
ジョナス・メカス(3) 『I Had Nowhere to Go』その1(『メカスの難民日記』)
ジョナス・メカス(4) 『樹々の大砲』
ジョナス・メカス(5) 『営倉』
ジョナス・メカス(6) 『スリープレス・ナイツ・ストーリーズ 眠れぬ夜の物語』、写真展@ときの忘れもの
ジョナス・メカス(7) 『「いまだ失われざる楽園」、あるいは「ウーナ3歳の年」』


ジャン=リュック・ゴダール『軽蔑』

2012-12-07 07:35:45 | ヨーロッパ

久しぶりに、ジャン=リュック・ゴダール『軽蔑』(1963年)を観る。

VHSも持ってはいるのだが、今となっては画質が汚い。DVDは1000円だった。

劇作家(ミシェル・ピコリ)とその妻(ブリジット・バルドー)。米国の映画プロデューサー(ジャック・パランス)は、フリッツ・ラング(本人!)を監督に迎え、ホメロス『オデュッセイア』の映画化をもくろんでいる。劇作家は脚本を担当するが、そのなかで、妻との関係が崩壊する。

俳優陣が痺れるほど好みだ。BBの顕示する肢体と妖しい視線。ジャック・パランスはもはや怪人(ロバート・アルドリッチ『攻撃』での迫力は凄まじかった)。逆にピコリは怪人化する前か。

BBは打算のない愛を享受してきた。映画冒頭の、裸での夫との会話場面がとろけるほど良い。

「わたしの足首は好き?」
「好きだよ」
「膝も好き?」
「君の膝も大好きだよ」
「太腿は?」
「太腿も愛しているよ」
「わたしのお尻は鏡に映ってる?綺麗?」
「とても綺麗だよ」

しかし、妻は、理性で慎重に動く夫を軽蔑する。愛を失うことを恐怖した夫は、それを理性で取り戻そうとして、無償性を自ら潰し続ける。

ラングは、『オデュッセイア』において、ユリシーズが妻のもとに帰りたくなかったがために長い旅に出たのだと語る。夫が愛を壊してしまったのは単なる結果か、意図せずしての破壊欲か。

『オデュッセイア』における神々の世界は、やがてこの映画そのものにもオーバーラップしてきて、神の視線で夫妻の姿をとらえはじめるように思える。愛も死も神の視線で語られるのである。

甘いと言われそうだが、実は好きなゴダール映画。


壱岐一郎『国が共犯!』

2012-12-05 23:48:05 | 政治

壱岐一郎『国が共犯!日中米4大謀略事件+3・11』(ウインかもがわ、2011年)を読む。

『けーし風』の読者会に参加された著者から買ったものである。(『けーし風』はこんな面白さもあるのです。)

表紙にあるように、権力による「謀略」が事実認定されている事件、そう疑われる事件が、取り上げられている。

張作霖爆殺事件・柳条湖事件は、関東軍による偽装だった。これをきっかけに、日本は侵略行動をエスカレートさせ、満州国を作りあげた。ただ当時はさほど巧妙ではなく、すぐに国際的に知れることになってしまう。

松川事件はひどい冤罪事件であり、日米による労働組合・共産党潰しが疑われるものだった。

ケネディ暗殺も、「9・11」も、真相は闇の中。著者は、米国における大きな力が働いたとする。

正直言って、わたしには「9・11」が米国による想定内の事件だとする説はとても信じられない。それを含め、いずれもざっくり言えば「陰謀論」である。しかし、関東軍の暴走も、戦後の米国による世界各地でのさまざまな謀略も、今では事実認定され、歴史に刻みこまれている。「9・11」についても、理屈ではなく感覚的に信じられないだけの話であり、真か偽か、いずれは明らかになることだ。

少なくとも、近現代史は帝国の表面に出てこない大きな力で動いてきた。それを「陰謀論」だと片付けることはナイーヴに過ぎることに違いない。あるいは知的退行だとも言うことができる。(もっとも、根拠なく陰謀論ばかり語る極端な人もいるが。)

わかりやすくまとめられた本である。日本人は細かい知識には詳しいが大きな流れを語るのは苦手だ、とする指摘には、納得させられる。「日本の風土には異論排除のイデオロギー(偏狭思想)が強く、「お上」=政府、米国を信じやすい心情が根強い」という指摘も、原発事故を経てさらに明らかになっている。