Sightsong

自縄自縛日記

ロル・コクスヒル+アレックス・ワード『Old Sights, New Sounds』

2014-04-17 07:26:12 | アヴァンギャルド・ジャズ

先日、DJの井上和洋さんがustreamでロル・コクスヒルの珍しい音源をたくさん披露してくれていて、改めてコクスヒルというソプラノサックス奏者が好きになってしまった。

これまで魅力だと感じていた脱力感だけでなく、奇妙なバランス感のもとにメロディアスなプレイも行っていたことが新鮮だった。淡々とわけのわからないユーモアを提示する「静かなる過激」なのだった。中でも、突然段ボールとの共演盤は愉快だった(欲しい)。

コクスヒルは1998年に来日し、確か、突然段ボールともそのとき共演している。わたしが観た演奏は、歌舞伎町ナルシスでのサックスソロであり、ほとんど予備知識なしに聴いたものだから、激しいわけでも奇をてらうわけでもないプレイに、ピンとこなかった。魅力は聴いているうちにじわじわと身体に侵入してくるものだ。そんなわけで、2010年にロンドンのCafe Otoに「ロンドン・インプロヴァイザーズ・オーケストラ」を聴きに行ったとき、その中にコクスヒルが座っていて、またしてもユルいサックスを吹いているのを見つけたのは、とても嬉しいことだった。

アレックス・ワードとのデュオ『Old Sights, New Sounds』(Incus、2010年)は、同年の録音。コクスヒルが亡くなったのは2012年であるから、最晩年の時期の録音でもある。

Lol Coxhill (ss)
Alex Ward (cl)

これはメロディアスな愉快犯モノではない。淡々と、クラリネットとくんずほぐれつ吹き続けており、決して「吹きまくる」だとか「ブロウ」だとか「バトル」だとかの言葉は当てはまらない。サックスのベンドと脱力は相変わらずである。勿論、つまらないわけではない。聴けば聴くほど、「よくわからない人たち」感が強くなっていく不思議さがある。

コクスヒルを探せ(2010年) Leica M3、Summicron 50mmF2.0、Tri-X(+3)、フジブロ4号

コクスヒル(2010年) Leica M3、Summicron 50mmF2.0、Tri-X(+3)、フジブロ4号

●参照
ロル・コクスヒルが亡くなった
G.F.フィッツ-ジェラルド+ロル・コクスヒル『The Poppy-Seed Affair』
ロル・コクスヒル、2010年2月、ロンドン
ジミー・スミスとコクスヒル/ミントン/アクショテのクリスマス集


ミシェル・ドネダ『OGOOUE-OGOWAY』

2014-04-16 07:48:29 | アヴァンギャルド・ジャズ

ミシェル・ドネダ『OGOOUE-OGOWAY』(Transes Européennes、1994年)を、ふと最近入手して聴いているのだが、これが期待通りというべきか、思いがけずというべきか、心底からほれぼれしてしまうような記録だった。

Michel Doneda (ss)
Paul Rogers (b)
Deba Sungu, Jacques Okouma, Jean-Claude Olounga, Jean-Louis Katoumba, Jean-Marie Ognouassouga (perc)

アフリカのパーカッショニスト集団が放ち続けるビートと声・コーラスの中を、ドネダのソプラノサックスとロジャースのウッドベースが縦横に活動する、1時間の演奏である。

これを聴いてしまうと、誰もがドネダのサックスの素晴らしさに放心せざるを得ないだろう。強烈なリズムと生命力に対し、ガチンコでぶつかるというのとは少し違う。風のような音、小鳥のさえずりのような音、叫び、共鳴、擦音。同様以上の強烈さ・強靭さは感じられるものの、それは衝突ではなく、自由な泳動であり、旅であり、ためらいのない発声である。

以前のライヴで、マウスピースさえはずしての自在な演奏に驚いたことがある。これもライヴに立ち会っていたなら茫然として呑まれていたに違いない。

ミッシェル・ドネダ+齋藤徹(2011年) Leica M3、Pentax-L 43mm/f1.9 Special、Tri-X(+2増感)、Gekko 2号

●参照
ミッシェル・ドネダ+レ・クアン・ニン+齋藤徹@ポレポレ坐(2011年)
ミッシェル・ドネダと齋藤徹、ペンタックス43mm(2007年)


ボビー・プレヴァイトの映像『Live in Japan 2003』

2014-04-13 13:32:19 | アヴァンギャルド・ジャズ

400円くらいと安かったこともあって、ボビー・プレヴァイトのDVD『Live in Japan 2003』(Word Public、2003年)を入手した。

Bobby Previte (ds)
Jamie Saft (key)
Skerik (sax)

2003年、川崎のクラブチッタでのライヴ。画質がさほど良くない上、ほとんどの部分で左右にニ分割されているため、ディテールがあまり見えない。しかし、まあ、それは大した問題ではない。

小気味よく、気持よさそうに叩いているなあ、という以上に、プレヴァイトのドラミングに対する感想がない。おそらくこういうものは、ライヴ会場で体感するか、ずっと聴き続けないと、身体の内部に入ってこないものだ。誰か、このあたりがプレヴァイトのツボなんだよと教えてくれると嬉しい。

バンド全体としては、だらだらと聴いて体感するのに最適(褒めている)。ジェイミー・サフトのキーボードが発するさまざまなノイズ音やベース音。変態じみたスケーリックのサックスとエフェクターと叫び。ライヴ会場ならばなおよかった。来日しないかな。


マックス・ローチの映像『Live at Blues Alley』

2014-04-13 10:43:37 | アヴァンギャルド・ジャズ

マックス・ローチのDVD『Live at Blues Alley』(ゲイリー・キーズ、MVD visual、1981年)を入手した。

Max Roach (ds)
Cecil Bridgewater (tp)
Odeon Pope (ts)
Calvin Hill (b)

このときローチは既に50代後半。終始ニコヤカにしながらも、叩きだすドラミングの音は紛れもなくローチのものだ。一糸乱れぬ組体操を次々に決めるというか、端正なるEXILEというか、複雑極まる積み木を一気に積み上げては壊す感覚というか、あるいは「ピタゴラスイッチ」の快感というか(違う?)。

こうなるとほとんど伝統芸能なのだが、何しろ、これはローチ自らがイノヴェーターとして開拓したスタイルなのである。勿論、モダンジャズは何も1940年代にゼロから生まれたわけではない。このライヴでも、ローチは、最後に、ハイハットだけを使い、先輩のパパ・ジョー・ジョーンズへの敬意を示すドラム・ソロを披露する。それでも、両者には大きな時代とスタイルの差がある。

セシル・ブリッジウォーターのトランペットは知的かつ熱い。ローチとの相性が抜群であったことが納得できる演奏だ。オデオン・ポープの音割れを特徴としたようなサックスも、中音域で柔軟に攻めるカルヴィン・ヒルのベースも良い。

それにしても、シンプルな演奏スタイルで、余裕を持って、この迫力。ジャズそのものを大きく革新するのに参加していた40-50年代、時代への怒りをジャズとして昇華していた60年代の演奏も、機会があればぜひ観てみたい。

●参照
マックス・ローチ+アブドゥーラ・イブラヒム『Streams of Consciousness』
セシル・テイラーのブラックセイントとソウルノートの5枚組ボックスセット(マックス・ローチとのデュオ『Historic Concert』を収録)


橋本照嵩『瞽女』

2014-04-12 23:16:03 | 東北・中部

ツァイト・フォト・サロンで、橋本照嵩『瞽女』を観る。

瞽女(ごぜ)とは、盲目の芸能者。1970年代前半に、新潟の新発田、高田、長岡で撮られた写真群である。

ここに登場する人たちは3人ひと組。目が見える人が先導し、他のふたりが三味線などの芸を行く先々で披露するといった形であったようだ。

広角レンズを使ったのだろうか。雪の中や、海辺や、農村の中を、手をつないで縦列で歩いてゆく彼女たちの姿が、印画紙にハイコントラストに焼かれ、存在したのだぞと言わんばかりに迫ってくる。はじめて実際の瞽女の姿を観て、驚かされた。何か文献を読んで勉強したいところ。

ところで、次は(2014/4/25-5/31)、北井一夫『村へ』のヴィンテージプリント展。期待しないわけにはいかない。


『現代沖縄文学作品選』

2014-04-12 10:04:00 | 沖縄

『現代沖縄文学作品選』(川村湊・編、講談社文芸文庫、2011年)を読む。

本書には、10人の沖縄の書き手による短編が収録されている。

安達征一郎「鱶に曳きずられて沖へ」
大城貞俊「K共同墓地死亡者名簿」
大城立裕「棒兵隊」
崎山麻夫「ダバオ巡礼」
崎山多美「見えないマチからションカネーが」
長堂英吉「伊佐浜心中」
又吉栄喜「カーニバル闘牛大会」
目取真俊「軍鶏」
山入端信子「鬼火」
山之口獏「野宿」

解説において編者の川村湊が書いているように、沖縄文学は、地方色を特徴とした位置付けにとどまらない。その異質性は容易に相対化されるべきものではない。

沖縄は、言うまでもなく近代以前は別国家であり、剥き出しの暴力によって日本の支配下に置かれた。「方言札」や沖縄戦でのスパイ扱いに象徴されるように、同質化を強要され、そして、戦後は米国に差し出された。マージナルな場所における多重支配である。そして、それを隠蔽するリゾート化と、オリエンタリズムに満ちた内外からの視線。

これらの作品群を読むと、沖縄が決して望んだわけではない(むしろ激しく拒絶さえしている)生活環境が、沖縄を抱える書き手の内部を経て、文学の中に注入される独特の差し迫った力を生んでいるように感じられてならない。

機能として滅却できない記憶というものについては、大城貞俊「K共同墓地死亡者名簿」や崎山麻夫「ダバオ巡礼」に書かれている。抑圧により絶えず噴出を準備する暴力の衝動については、又吉栄喜「カーニバル闘牛大会」や目取真俊「軍鶏」を読めば、「他人事」(これを認めるところからすべてがはじまる)ながら、激しい痛みと切迫感とが伝わってくる。そして、オリエンタリズムとはまったく異なるローカリズム(イズム、と言うべきではないが)は、鬼才・崎山多美「見えないマチからションカネーが」に垣間見ることができる。

●参照
崎山多美『月や、あらん』
崎山多美『ムイアニ由来記』、『コトバの生まれる場所』
目取真俊『沖縄「戦後」ゼロ年』
又吉栄喜『鯨岩』
又吉栄喜『豚の報い』
大城立裕『朝、上海に立ちつくす』
大城立裕『沖縄 「風土とこころ」への旅』
山之口貘のドキュメンタリー
山之口獏の石碑


ダンテ・ラム『コンシェンス/裏切りの炎』

2014-04-10 23:32:03 | 香港

ダンテ・ラム『コンシェンス/裏切りの炎』(2010年)(原題:火龍)を観る。

香港警察の刑事ふたりを、レオン・ライとリッチー・レンが演じる。片や、妻の死に絶望しながら凶悪犯を憎み、追う男。また片や、黒社会とのつながりと手を切ることができない男。お互いに親近感を覚えつつ、やがて、相容れないふたりは正面衝突を選ぶこととなる。

ダンテ・ラムの映像は凝りに凝っており、またスタイリッシュでもある。だが、余裕も、ユーモアも、また突き抜けるものも希薄である。一言で言うと、あまり面白くはない。折角登場するビビアン・スー(懐かしいな)も、魅力を出してもらっていない。


石橋克彦『南海トラフ巨大地震』

2014-04-09 01:06:48 | 環境・自然

石橋克彦『南海トラフ巨大地震 歴史・科学・社会』(岩波書店、2014年)を読む。

伊豆半島の西側にある湾・駿河トラフは、沖合で西南西に向きを変え、九州南端の東沖まで連なる南海トラフとなっている。フィリピン海プレートが、日本の陸地化に潜り込むところである。ここで、プレート間の地震のみならず、他のタイプの地震も多く起きてきた。従って、著者が昔から警告し続けているように、今後近い将来に大地震が起きる可能性は高いというべきなのだろう。

確かに、本書において、地面の下に刻み込まれた記憶や古文書の記録から再現された、かつての南海トラフ巨大地震の具体的な姿を見せられると、ゾッとしないわけにはいかない(古い地震についても、いまでは、各地の震度や津波の高さまで再現できているのである)。震度7の場所も、津波の高さが10mや20mにもなる場所も、当然、あったわけだ。

ただ、ほぼ同じ期間の周期をもって大地震が起きるという説は科学的に立証されたわけではないし、著者も、それをあくまでも作業仮説として扱っているように思われる。大地震は、さまざまな要因が連関しあって起きる現象であり、また、このような大規模なトラフや海溝でのみ起きるわけでもない。

また、活断層にのみ注目することも危険である。活断層とは、地表で確認できた断層を呼ぶものにすぎず、阪神淡路大震災も、その意味では想定外であったわけである。従って、原発再稼働に際して活断層の判断にばかり論点が集中することは、明らかに、危険評価の矮小化であるということができる。

本書のメッセージは、南海トラフで巨大地震が起きる可能性は低くないものの、それがいつになるか、確度の高い予測はまず不可能だということだ。南海トラフの前に、他の場所で巨大地震が起きる可能性だって、同程度に高い。それが「想定外」であったとき、まさに著者が『原発震災』において予言し、不幸な結果を見た事態が、また起きないとは限らない。

すなわち、日本において、巨大地震はいつどこで起きるかわからない。従って、起きたときの対策を講じておくべきであるし、そのときには「想定外」がつきものであることが常識化されるべきでもある。(その意味では、本書のタイトルは、間違って解釈されるおそれがある。)

●参照
石橋克彦『原発震災―破滅を避けるために』
『The Next Megaquake 巨大地震』
『Megaquake III 巨大地震』
『Megaquake III 巨大地震』続編
大木聖子+纐纈一起『超巨大地震に迫る』、井田喜明『地震予知と噴火予知』
ロバート・ゲラー『日本人は知らない「地震予知」の正体』
島村英紀『「地震予知」はウソだらけ』


東京琉球館

2014-04-06 21:30:54 | 沖縄

ちょっとした相談事などあって、元OAM(沖縄オルタナティブメディア)の西脇さんと、駒込の東京琉球館(旧・どぅたっち)に足を運んだ。

昼食を一緒にという約束。店主・島袋さんお手製の美味しいカレーライスをごちそうになってしまった。(勝手に写真を載せてみる)

映画『スケッチ・オブ・ミャーク』とそれを巡る批判、宮古の文化やことば(宮古島出身の女性も一緒)、目黒にあるという宮古料理の店「あんな ga きっちん」のこと、OAMのこれまでと今後の活動、東京琉球館の活動、読谷村にあるという沖縄そばの店「金月そば」のこと、大阪市大正区の関西沖縄文庫のこと、琉球独立論、米軍基地の県外移設論など、いろいろな話。

やっぱり、大事な場なんだなと改めて考えた次第。


ジョン・マグレガー『奇跡も語る者がいなければ』

2014-04-06 19:57:19 | ヨーロッパ

ジョン・マグレガー『奇跡も語る者がいなければ』(新潮社、原著2002年)を読む。

英国の住宅街、とある通りで生活する様々な人びと。

パキスタン系の家では、やんちゃな双子の兄弟が、外でクリケットをしたり、悪戯をしたり。やけに身の周りを小奇麗にした口髭の男は、近くでバンジージャンプを行う。いつも自分の車を洗う男もいる。ドライアイの若い男は、収集癖があり、記憶とともに缶詰に封じ込めようとする。眉にピアスをした若い男は、やかましい。老夫婦はいつも上品。

その中にいるメガネの女の子が、3年後、自らの妊娠と恋愛について語りはじめる。物語は、3年前の群像劇との間を行きつ戻りつし、絡み合う。

作者のいう「奇跡」(remarkable things)は、決しておとぎ話でない。むしろ、登場人物それぞれの小さな身のこなしや心の機微を丁寧に追うことで、物語の絡み合いが、一期一会の大事なものとなって見えてくる。つまりこれは、読者の物語にも転じうるものである。

マグレガーの最新短編集『This isn't the sort of thing that happens to someone like you』(Bloomsbury、原著2012年)は、随分「英国的」に、屈折した奇妙な魅力を持つものだった。この作品から10年を経たものであり、その間に、作者も20代から30代になっている。この興味深い変化を追うためにも、ぜひ、他の作品も邦訳してほしいところ。

●参照
ジョン・マグレガー『This isn't the sort of thing that happens to someone like you』


「東京の沖縄料理店」と蒲田の「和鉄」

2014-04-06 07:50:53 | 関東

元OAM(沖縄オルタナティブメディア)の西脇さんに誘われ、蒲田からふた駅の街にある沖縄料理店に足を運んだ。元、というのは、既にNPO法人として解散してしまったからであり、敢えてそう呼んでいるのは、西脇さんご自身が今後の沖縄との関わりを模索しているからである。ぜひ、これまでの経験を本にして出してほしいと思う。

それはそれとして、もずくの天ぷら、ぐるくんの唐揚げ、豚軟骨、ひらやーちーなど、料理は旨いものだった。リーズナブルでもあった。しかし、店の人は吃驚するほど無愛想で、いや無愛想なだけなら朴訥で素朴な人柄なのかと思うこともできるのだが、最後はほとんど乱暴に空いた皿やジョッキを回収していき、飲み食いが終わったなら早く出て行ってくれと言わんばかりだった。まったく混んでもいないのに。

まあそんなわけで、これをもって「東京の沖縄料理店」を語ることはできないものの、東京において「コンテンツとしての沖縄」を使うことの哀しさ自体はかいま見えるわけである。

代償行為として、蒲田駅で降りて、ラーメンでも食おうとうろうろ。西口側の雰囲気は猥雑でとても良いのだが、うまく入りたい店が見つからなかった。(あとで西脇さんが、西口なら「インディアン」が旨いと教えてくれたが、ちょっと駅から遠い模様。)

結局、東口にまわってスマホで調べ、「和鉄」という店に入った。注文したニラそばは、刻んだニラがスープの表面にびっしり載っており、また焦がしネギも入っていて、少しピリ辛で旨かった。根津の名店「BIKA」がこのようなニラそばを看板メニューにしていて、学生時代から随分好きだった。他のラーメン屋でもメニューに取り入れてほしいところ。

●参照
蒲田のニーハオとエクステンション・チューブ


加藤直樹『九月、東京の路上で』

2014-04-03 08:09:00 | 関東

加藤直樹『九月、東京の路上で』(ころから、2014年)を読む。

1923年9月1日、関東大震災。その直後に、「朝鮮人が井戸に毒を投げ入れている」といったデマが流れ、多くの朝鮮人・中国人や、沖縄人、日本人もが殺されたことは、よく知られている。また、騒動に乗じて、大杉栄、伊藤野枝平澤計七といった、政治的に都合の悪い存在も、官憲に殺された。

本書によれば、それらの事件の全貌は明確でないという。立件された数に基づくなら、233人の朝鮮人が何の罪もなく殺された。しかし、政府当局は、明らかに、責任の所在を追求させず、また海外で事件が明るみに出ることを恐れ、事件の隠蔽と矮小化に努めた。推定では朝鮮人だけで1,000人以上、加えて中国人も200数十人~750人が殺されたと推定されるという。事件の初期段階では、率先してデマを広め、また収束段階においても、都合の悪い存在を密かに殺したにも関わらず、である。

しかしながら、これらの凶悪犯罪の中心を担ったのは、地域の一般市民であった。恐ろしいことは、普通の群衆が異常事態において凶悪な獣と化すことではない。むしろ、獣と化したあと、その原因を異常事態に帰すことを良しとして、正当化に努めたことである。

本書には、ショッキングな事実が書かれている。世田谷区の烏山神社には、事件後、13本の椎の木が植えられた。しかしそれは、犠牲者の鎮魂のためではなかった。犯罪に加担し起訴された12人の地域の人びとが、決して長くない刑期を終えて、地域に戻ってきた。地域では、彼らの苦労をねぎらうために、椎の木を植樹したのである。

当時の古老による発言がある。「日本刀が、竹槍が、どこの誰がどうしたなど絶対に問うてはならない、すべては未曽有の大震災と行政の不行届と情報の不十分さがおおきく作用したことは厳粛な事実だ」と。

わたしはこのくだりを読み、文字通り戦慄を覚えた。すべてを曖昧にし、誰も責任を負わず、個人の尊厳や知性を限りなく軽視し、群衆のみとして動く社会。当時も、もちろん戦争前後も、現在も、本質的にまったく変わっていない。

●参照
平井玄『彗星的思考』(関東大震災時に弟を虐殺された南喜一)
伊藤ルイ『海の歌う日』(大杉栄、伊藤野枝、橘宗一)
藤田富士男・大和田茂『評伝 平澤計七』(亀戸事件)
山之口貘のドキュメンタリー(関東大震災時の虐殺の記憶)
道岸勝一『ある日』(関東大震災朝鮮人虐殺の慰霊の写真)
『弁護士 布施辰治』(関東大震災朝鮮人虐殺に弁護士として抵抗)
野村進『コリアン世界の旅』(阪神大震災のときに関東大震災朝鮮人虐殺の恐怖が蘇った)


ちえみジョーンズ『being away from indiana』

2014-04-02 23:37:19 | ポップス

去年、那覇の桜坂劇場で開かれた音楽イベント「Sakurazaka ASYLUM 2013 -TAIWAN STYLU-」で、ちえみジョーンズ自身がライヴ前にビラを配っていたのに聴くことができず、ちょっと心残りでもあって、ここのところ、新しいCDを聴いている。

ちえみジョーンズ『being away from indiana』(tetete records / keeponmusic、2013年)

厚紙を自身がミシンで縫ったというジャケットも、中に入っていた付録のシール(スーツケースにでも貼ろうかな)も手作り感が溢れまくっていて、グッド。

もちろん外側だけでなく、中身も、ベリー、グッド。声量は無いほうだと思うが、中性的というのか、聴いていて気持ちが良い。自分のポジションを覚悟して、手の届く範囲に音楽を創りあげているような感覚。歌詞も同様に息の届く範囲。

また沖縄のどこかで聴きたいものだ。那覇の栄町市場で聴いたのはもう7年も前。


ファラオ・サンダースの映像『Live in San Francisco』

2014-04-02 00:15:04 | アヴァンギャルド・ジャズ

ファラオ・サンダース『Live in San Francisco』(Evidence、1981-82年録画)という中古DVDを見つけた。

Pharoah Sanders (ts)
John Hicks (p) ①②
Walter Booker (b) ①②
Idris Muhammad (ds) ①②
Paul Arslanian (harmonium) ③

何しろ1981-82年の記録であるから、ファラオ・サンダースもジョン・ヒックスも40代になったばかりで若い。それだけで嬉しくなってしまう。

ファラオ・サンダースは音色勝負の人。綺麗な和音から、やたらと多くの周波数をノイズのように混ぜ込んだ音までを、ひたすら繰り返すだけ、なのである。

そしてジョン・ヒックスは、やはり美しい和音やメロディーで、情熱的に何かを追求する。相矛盾するようなふたつの要素の強引なる共存が、ヒックスだといえる。汗まみれになって弾き続ける姿を観ていると、奇妙な感慨にとらわれる。

いちどだけ、新宿ピットインでヒックスのライヴを観たことがある。リチャード・デイヴィスと共演し、言うことをきかないジェームス・カーターを諌めていた。2006年に亡くなる何年か前だった。

●参照
ソニー・フォーチュン『In the Spirit of John Coltrane』(ヒックス参加)
ソニー・シモンズ(ヒックス参加)
チコ・フリーマンの16年(ヒックス参加)