原題:『リアル 完全なる首長竜の日』
監督:黒沢清
脚本:黒沢清/田中幸子
撮影:芦澤明子
出演:佐藤健/綾瀬はるか/中谷美紀/オダギリジョー/小泉今日子
2013年/日本
「説明責任」は果たされたのか?
タイトルにある「首長竜」に主眼を置いて論じてみたいと思う。和淳美淳が自殺を図り、昏睡状態となってから一年が経過し、飛古根島で彼女と同じ小学校に通っていた間柄で一緒に暮らしていた藤田浩市は淳美の自殺の原因を探るために、眠り続ける淳美と意思疎通ができる<センシング>と呼ばれる手法を用いて、淳美の意識内へ潜り込む。意識の中で淳美は小学生の頃に浩市が描いた首長竜の絵が見たいと頼む。それを見れば漫画家としての自信が取り戻せるという淳美の期待に応えるために、浩市は淳美が借りていた資料室や実家に赴いては探してみるのであるが見つからず、ついには15年振りに飛古根島まで行ってみる。淳美と共有していた秘密の物置に自分が描いたスケッチブックを見つけたのであるが、再び淳美を連れて訪れてみるとそのスケッチブックには何も描かれていなかった。やがてその首長竜は淳美が浩市にプレゼントしたペンダントに入っているタツノオトシゴが元になっていることが分かるのであるが、タツノオトシゴと首長竜のイメージが混濁する原因は、2人の同級生であるモリオだった。淳美に好意を持っていたモリオは、よそ者である浩市に淳美が好意を寄せることが我慢できずにいた。海の中で喧嘩になった際に、モリオが溺れて行方不明になったことを誰にも言えなかった2人は、浩市がスケッチブックに描いた首長竜に責任を転嫁しようとするが、罪悪感が消えることはなく、モリオが首長竜と化して2人に襲いかかる。その時、淳美がタツノオトシゴのペンダントを首長竜に渡すことで首長竜は去っていく。
これが「完全なる首長竜の日」というタイトルの物語なのだが、正直なところ何が‘オチ’なのかがよく分からない。妙にホラー色が強く、SF作品を期待していた者としてはがっかりしてしまう。例えば、本作に関して映画批評家の蓮實重彦氏は『群像』(2013年7月号)の映画時評において、「映画における『説明責任』とは、いかなるものであるべきなのか」というタイトルで、「いずれにせよ、これは、どうすれば『首長竜』が『完全』なものになるのかという『説明責任』をめぐる映画にほかならず、その一環として、どうしたって‘本物’の『首長竜』がCGで登場しなければならないだろう。(p.350-351)」と記しているのであるが、CGで首長竜を登場させれば説明責任が果たされるというものでもあるまいし、ラストシーンを見ても分かるように、まるでそれまで描かれていた物語全てが浩市が見ていたただの夢のように装い、黒沢監督はいつものように説明責任など果たすつもりなど全くないのである。これでは例えば『ツリー・オブ・ライフ』(テレンス・マリック監督 2011年)同様に人気のある俳優をキャスティングして興味を惹きつけても、いわゆる「シネフィル」と呼ばれているような人たちにはウケても、多くのちびっ子たちには一体何が面白いのか理解出来ないであろう。