徳永英明似の村上栄一さんは自分の経歴を簡潔に語り始めた(広島に3度も赴任するのは異例とのこと)。最初は広島支局にデスクとして赴任、平成8(1996)年というと私が屑高校(あまりにも酷い教育現場だった)と絶縁した9年後にあたる。
広島県の行き過ぎた平和人権教育の問題点を正々堂々と報道するまでの(取材・裏取り)苦労話は大変興味深かった。教職員組合と恫喝団体による突き上げで校長が自殺に追い込まれた件では「絶対に許してはならん…。石川先生の仇を討ったる」と思ったという告白が私の胸を打った。
広島県東部ではタブーとされる教育問題を取材する過程で様々な圧力がかかった(職場盗聴の可能性、無言電話、訳のわからないFAXが届く)が、恫喝の手紙は大いに励みになったと皮肉り聴衆を笑わせた。
「日本(の報道機関)から産経が無くなったらダメになるという意見を支えに(子ども達のために)仕事をやっていく」と決意表明し、退任前の秋葉市長が産経新聞だけにインタビューに応じたのは、彼が産経の取材方法を評価していたからだと裏話も披露してくれた。
終盤彼は反日勢力へ厳しい眼差しを向けた。日本人なのに日本のことが大嫌いな輩による子ども達の洗脳を危険視し、日の丸は身分差別につながるという思想ではまともな人間は育たず国際競争力はつかないと結論付けた。予定を17分オーバーして講演会は終了した。

有意義な時間を過ごし地上に出ると既に街にネオンが明々と灯っていた。アイネスを見上げた私は駅前大通りを南下し嬉しげに家路についたのである。

広島県の行き過ぎた平和人権教育の問題点を正々堂々と報道するまでの(取材・裏取り)苦労話は大変興味深かった。教職員組合と恫喝団体による突き上げで校長が自殺に追い込まれた件では「絶対に許してはならん…。石川先生の仇を討ったる」と思ったという告白が私の胸を打った。
広島県東部ではタブーとされる教育問題を取材する過程で様々な圧力がかかった(職場盗聴の可能性、無言電話、訳のわからないFAXが届く)が、恫喝の手紙は大いに励みになったと皮肉り聴衆を笑わせた。
「日本(の報道機関)から産経が無くなったらダメになるという意見を支えに(子ども達のために)仕事をやっていく」と決意表明し、退任前の秋葉市長が産経新聞だけにインタビューに応じたのは、彼が産経の取材方法を評価していたからだと裏話も披露してくれた。
終盤彼は反日勢力へ厳しい眼差しを向けた。日本人なのに日本のことが大嫌いな輩による子ども達の洗脳を危険視し、日の丸は身分差別につながるという思想ではまともな人間は育たず国際競争力はつかないと結論付けた。予定を17分オーバーして講演会は終了した。

有意義な時間を過ごし地上に出ると既に街にネオンが明々と灯っていた。アイネスを見上げた私は駅前大通りを南下し嬉しげに家路についたのである。

