寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

笠岡市笠岡の笠神社に参拝後、ふるさと中華そばを食す

2012年02月02日 | 
笠岡の総氏神さんである笠神社に参拝することにした。参道の上の方から元気のいい女の声が聞こえた。

笠神社の参道(石段)で遊ぶ女の子たち

最初はグー。ジャンケンポン。…パイナツプル…。ジャンケン(グリコ)をする子どもを久し振りに見た気がする。福山の中心部ではまずお目にかかれない。

笠神社拝殿

境内では計5人の女の子(小学校の低学年と思われる)がこの遊びに熱中していた。親から呼ばれた子どもは賽銭箱の前から去って行った。私は漸くお参りを済ませることができた。

笠岡東本町商店街入口

笠岡東本町商店街に入る。まもなくして海鼠壁の建物が現れた。黒漆喰の使用は富の象徴であった。

漁具・船具を扱う廣井三郎商店

漁具・船具を扱う廣井三郎商店は港町笠岡が繁栄していたことを現在に伝える貴重な建造物と言える。この他にも私の目を喜ばせた店が多数あった。

三洋旅館

三洋旅館1階の割烹・お多津

中央町の三洋旅館に到着。1階のお多津という割烹店の暖簾を潜る。私はふるさと中華そば(600円)を注文した。

お多津のふるさと中華そば

すっきりした味わいの合わせ出汁、適度なかたさの煮鶏(チャーシュー)、食欲をそそる胡麻と香味油のにおい。味を引き締める糸唐辛子と小洒落た器が良い。豚背脂プカプカギトギト系(すこぶるバランスの悪い食い物)が苦手な私は地元でラーメンをほとんど口にしないが、ここの中華そばは度々食べたいと思う。福山支店なるものができれば2週間に1度は来るだろう。

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笠岡市の笠岡伏越遊廓跡をブラリ

2012年02月02日 | 
かつての色街へ続く路地の入口辺りに建つ木造家屋の脇には忍び返しが取り付けてある。傷みの激しい家が残っているのは呉市吉浦東本町1丁目の物件(立入禁止)と同じ理由かもしれない。

いずれは取り壊される運命にある木造家屋

元妓楼

格子戸の横に色違いのタイルを貼った元芸楼の向かいに位置した奇抜なデザインの岡部医院は既になく更地が広がっていた。医院跡地に入り南方に目をやる。

 笠岡伏越遊廓は岡山県小田郡笠岡町伏越に在つて、山陽線笠岡駅で下車すれば東南へ約五丁の処である。乗合自動車の便があつて、伏越停車場で下車すれば直ぐである。笠岡町は瀬戸内海に臨んだ港町で、四国への便船がある。大高島、小高島、白石島、北木島、真鍋島、小飛島、大飛島等が鏡の様な海面に浮いて居て、山陽沿線でも景勝の地である。宿場から本廓に成つたのは、何年頃からであるかは判明していない。現在貸座敷は拾六軒あつて、娼妓は六十三人居る。店は写真式で陰店は張らない。娼妓は居稼ぎ制で送り込み制では無い。遊び方は時間制で廻しは一切取らない。御定りは七円廿銭であるが、午後九時から一泊ならば五円である。廻しを取らないから本部屋も無い。税は玉代の九分である。茲の娼妓は総て芸妓の鑑札を持つて居るので、御定りの時には必らず三味線を持参する事に成つて居る。三味も弾けば踊りも踊り、唄も唄えば舞いも舞ふと云ふ誠に便利な娼妓である。須らく娼妓の質も茲迄向上せしめねばうそである。妓楼は、栄楼、金八楼、吾妻楼、入船楼、勇喜楼、昭和楼、自由亭、月見楼、観海楼、朝日楼、三日月楼、虎屋楼、第二観海楼、於多福楼の十六(ママ)軒。

『全国遊廓案内』

伏越交差点に出る道沿いに建つ民家(その1)

伏越交差点に出る道沿いに建つ民家(その2)

更地の先の信号機は国道2号線の伏越交差点で城山隧道の手前(東側)に当たる。交差点の南にある伏越港からは笠岡諸島行きの船が出ている。小学生の頃この港から北木島に向かったことがあった。臨海学校というのは今でもやっているのだろうか。

岡部医院があった場所は売地になっている 元妓楼の上に見えるのが地福寺

元煙草屋(左手の建物)

交差点の手前で私はUターンし北へ歩いた。元妓楼の横を通り過ぎると古い家が軒を並べていた。煙草屋が廃業してから相当年月が経っているように思われた。

JR山陽本線・伏越一踏切を通過する貨物列車

JR山陽本線・伏越一踏切の表示

伏越一踏切を通過する貨物列車。昔の遊び人はここで蒸気機関車の黒煙を見たのだろう。自転車を押して坂を上る爺さんの後を追い浜街道に戻った。

JR山陽本線・伏越一踏切から浜街道に上がる坂

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