寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

福山市地吹町の旭観音堂(その1)

2012年09月28日 | 郷土史
下井手川(ながれ川)に架かる鴨原橋を渡り旭観音堂前に到着した。川沿いに建つ石碑が気になった私は石碑に刻まれた文字を目で追った。「時津浪寉之助 明治二年巳八月…」と書いてある。

下井手川左岸に残る石組(鴨原橋北側)

下井手川右岸に残る石組(鴨原橋北側)

側面を調査している時に橋の北側(両岸)に古い石組が残されている事にも気付いた。鞆鉄道の路線の遺構と思われる。観音堂に孫を連れて歩いてきたお婆さんに私は声をかけた。

「おはようございます。古い話をお聞きしますが、この石碑は何ですか?」

「それはねー。お相撲さんのお墓らしいですよ」

「何でまたここに…」

「私も詳しいことは知りません」

「この辺りを鞆鉄のちっちゃな汽車が通っていたんですか」

「はい、ここを通って交差点の方へ行ってました」

「やっぱりそうなんだ。で、この川は下井手川と言うらしいですね」

「川の名前までは…分かりませんが、福山空襲の際には火を逃れてこの川に入って亡くなられた人が多いんですよ」

「失礼ですが、お母さんは昭和何年生まれです?」

「七年(※1932)です。この辺りは丸焼けになりました」

「では空襲を経験された…」

「ええ。住んでいたのはここではなく三菱の寮(※紅葉町)で、中に居たら助からんと判断して建物から出ました。布団を投げてもらって下へ避難して九死に一生を得ました。それでも焼夷弾の直撃を受けて死んだ人が一人いましたね」

「………」

下井手川右岸に建つ力士の墓(時津浪)

にほんブログ村 その他日記ブログ ひとりごとへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

学生食堂のコロッケの思い出

2012年09月28日 | 学生時代
昭和末期の東千田キャンパスには3つの学生食堂(第1、第2、学生会館)と喫茶部があった。入学してからの1年はオンボロの第2食堂(略してニショク)で昼食を取るのがお決まりのコースだった。総合科学部の校舎から最も近く、かつ値段が安いのでいつも長蛇の列ができていた。

ニショクの看板メニューはBランチ。脂肪分の多いメンチカツ・カレーコロッケ・刻みキャベツがのった大皿に山盛り飯と塩分の高い味噌汁がついた。揚げ油が悪い所為か食後は決まって胸焼けがしたものである。

早食いを覚えたニショク(木造2階建で2階が部室だった)は平成の世になってから取り壊された。私が家でコロッケを食べる時にはニショクでの早食い競争を思い出す。そして女性がそこにほとんどいなかったことも(確かに3つの食堂の中では最も不味いことで有名だった)

にほんブログ村 その他日記ブログ ひとりごとへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする