寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

福山市地吹町の旭観音堂(その3)

2012年09月30日 | 郷土史
旭観音堂横に立つ石柱には「本堂再建紀念 大正十四年八月十七日」と刻まれており、発起人として古野上と地吹の各2人(計4)の名前がある。地元の有力者であろう。観音堂は再建からわずか20年ほどで焼失したことになる。

鴨原橋から下井手川下流を望む

福山の人間は芦田川以外の川の名をあまり覚えていない。お婆さんと同様私も最近まで上井手川と下井手川の違いが分からなかった。知らなくても別に困らないからただの小川(かつての遊び場)くらいの認識だったのである。

しかし、井手とは一体どう意味なのか。気にはなっていたが、これまで放置していた。別件の調査で私はその答えを偶然見つけ出した。

 ここで『井手』について説明する。『井手』とは水の手であり、用水源を意味する。普通、用水は川(ここでは芦田川)・池から用水路で引く。川の中の水を引くには普通『井堰』が必要、堰き止めた水を水路に流入さすためには樋門を設けて流入操作をする。この用水を昔から『井手』という。井手の内容は様々で、堰を指す場合、用水を指す場合、両者をひっくるめる場合、時には井戸の場合もあるという。井手は自然に出来たものでなく、その時に生きた人々の努力によって創設され、維持され、改良されて今日にある。

『福山市多治米町誌(平成五年)』

下井手川が造られた経緯は『新版福山城』に詳しく書かれている。町歩きの前に必要な予備知識としてぜひ頭に入れて欲しい。

 福山の城下町を特徴づけ、さらに全国に誇りうるものに上水道の設備がある。
 もともと、福山の地は海岸に発達したデルタ上に形成された城下町で、武家屋敷や町家の敷地は古くは海中にあった所、それが芦田川の土砂で埋もれるか、または埋め立ててつくられた土地だけに、飲料水を得ることに大変困ったのである。
 芦田川の伏流水が流れる水筋にあたったところは良水が湧くけれども、ひとつこの水筋をはずれるともとの海底の泥土となって塩分の多い水で、飲料に供することはできない。また、城下の南方地先を干拓して耕地を広げる計画も考えていただろう水野勝成にとって、水の確保は大きな課題であった。
 そこで、勝成は、芦田川から引水して、街内へ縦横に水路をうがち、溝をめぐらし、ところどころに水の溜まる井戸状の貫洞をうがち、そこから木管で桶に水を配し、さらに竹管で各戸に配するいわゆる上水道の設備を整えていった。

 水源は芦田川の水であり、本庄村「艮の鼻」から分水して、松山(現・護国神社のある天神山)と永徳寺山(現・福山八幡宮のある丘陵)の間を掘り切って流した。
 しかし、元和六年(一六二〇)の大洪水で工事は一頓挫し、その後、更に上流の高崎こうさきに取水口を設け、芦田川と高屋川の合流点から芦田川と平行した分流をつくり、本庄村二股ふたまたで上井手と下井手に分け、さらに下井手を木之庄のどんどん池(今日、蓮池という)に導いたのである。そしてどんどん池から松山と永徳寺山の間を流した。どんどん池を貯水池として、ここから外堀へ、また城下町へ導水したのである。
 取水口は全部で四ヶ所あった。

『新版福山城 / 福山市文化財協会(2006年)』

一番大きな地蔵に手を合わせた私はお婆さんに旧芦田川の支流・鷹取川(廃川)の位置を尋ねた。彼女は「ナカマ理容院」を指さして「もう一つ向こうの信号機つき(※草戸町淀川)交差点辺りに確か川が流れていたと思います」と言った。はっきりとした口調でなかったのは河川改修工事が進んで鷹取川の川幅がかなり狭まった状態を思い起こしていたからではないだろうか。

一番大きな地蔵

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大根のアク抜き

2012年09月30日 | 食材
家の畑から抜いてきた大根であれば、皮つきのまま輪切りにして炊くこともあるが、収穫から日数が経ったものを外で購入した場合はアク抜きをした方がよい。

大根を好みの厚さに切り皮をむいて面取りする(皮はきんぴら、面取りした部分はなますなどに利用できる)。輪切りの大根を竹串が刺さるくらいまでゆでて丘上げする。表面の水分が蒸発することで味が染みやすくなる。今回はアク抜きした大根を醤油煮にした。

アク抜きした大根を出汁で炊く

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