昨日鞆鉄道・野上駅跡を紹介したが、少し寄り道することをお許し願いたい。備後国(の本流である福山)に近代的な鉄道が敷かれるまで住民はどんな道を通って城下を離れていたのだろうか。私と同じく素朴な疑問を抱いた人はかなりいるはずだ。
謎が解けるきっかけとなったのが平成22年(2010)年7月21日(水)の毎日新聞朝刊の記事である。高山梓氏が書いた全文と現在の霞町4丁目交差点から西を望む写真を掲載する。

尾道、鞆への「道しるべ」 福山・霞に〝里帰り〟
福山市霞町の福山霞三丁目商店街に明治時代から第二次大戦後まで「道しるべ」として設置され、その後の土地区画整理事業で移転を余儀なくされた石柱がこのほど、里帰りした。
石柱は1900(明治33)年、地元の衆議院議員が寄贈した。江戸時代から街道として多くの旅人らでにぎわった一帯で、石柱は西の尾道と南の鞆への分岐を示す存在だったという。戦時中の空襲で辺り一面は焼け野原になったが、石柱は無傷で残った。
しかし、54年の土地区画整理事業に伴い撤去され、約500㍍離れた中央公園(同町)の敷地内に移された。
4年前、移転の経緯を知った同商店街の吉山征一理事長(72)が「あるべき場所に道しるべを帰してあげたい」と考え、56年ぶりの里帰りが決まった。
今月17日、商店街関係者や市立霞小の児童らが台車を使い石柱を運び、元の場所に設置した。高さ約1・8㍍、重さ約300㌔の御影石製の石柱には、「左トモツ道」「右ヲノミチ道」と当時から残る文字で方向が示されている。
吉山理事長は「やっと戻ってくれたなあ、と感激。街の歴史の証人として、これからも大切にしたい。にぎわい復活につながってくれれば」と話した。
【高山梓】

花のふじわら(霞町4丁目4-1)寄りに再移築された追分道標は正しい方向を向いている。花屋の対面(旧道を挟んだ北側)が和洋菓子店の福備堂(同町4丁目3-5)である。

謎が解けるきっかけとなったのが平成22年(2010)年7月21日(水)の毎日新聞朝刊の記事である。高山梓氏が書いた全文と現在の霞町4丁目交差点から西を望む写真を掲載する。

尾道、鞆への「道しるべ」 福山・霞に〝里帰り〟
福山市霞町の福山霞三丁目商店街に明治時代から第二次大戦後まで「道しるべ」として設置され、その後の土地区画整理事業で移転を余儀なくされた石柱がこのほど、里帰りした。
石柱は1900(明治33)年、地元の衆議院議員が寄贈した。江戸時代から街道として多くの旅人らでにぎわった一帯で、石柱は西の尾道と南の鞆への分岐を示す存在だったという。戦時中の空襲で辺り一面は焼け野原になったが、石柱は無傷で残った。
しかし、54年の土地区画整理事業に伴い撤去され、約500㍍離れた中央公園(同町)の敷地内に移された。
4年前、移転の経緯を知った同商店街の吉山征一理事長(72)が「あるべき場所に道しるべを帰してあげたい」と考え、56年ぶりの里帰りが決まった。
今月17日、商店街関係者や市立霞小の児童らが台車を使い石柱を運び、元の場所に設置した。高さ約1・8㍍、重さ約300㌔の御影石製の石柱には、「左トモツ道」「右ヲノミチ道」と当時から残る文字で方向が示されている。
吉山理事長は「やっと戻ってくれたなあ、と感激。街の歴史の証人として、これからも大切にしたい。にぎわい復活につながってくれれば」と話した。
【高山梓】

花のふじわら(霞町4丁目4-1)寄りに再移築された追分道標は正しい方向を向いている。花屋の対面(旧道を挟んだ北側)が和洋菓子店の福備堂(同町4丁目3-5)である。

