神辺町川南から千田町大字千田に入ってすぐ工場が2つある。街道左手が品川リフラクトリーズ(旧名は品川白煉瓦)株式会社岡山工場千田製造室で現在は稼動していない。この向かいに位置するのが子会社の品川窯材株式会社で両会社の建つ場所がまさしく湯坂谷という字である。

どちらも日本鋼管(現JFEスチール)が福山に来てから出来たという話だが、土地買収が行われるまでは田んぼが広がっていたそうだ。

親会社の正門から南側が唐丸(とうまる)の坂で道路脇に大きな石碑が建っている。江戸中期までは湯坂・唐丸の2つの峠越えはかなりの難所であったことが『神辺町史 前巻』に記されている。
福山藩領では、その米を二俵ずつ担うて湯坂の峠を越え、福山築切における藩の倉庫に運んだ。牛や馬を有するものは一頭が三俵を背にのせて行くので輸送上甚だ優位であった。
当時、湯坂や唐丸の峠は、石段を上って越えるという悪路であったから、天明五年(一七八五)川南村の庄屋菅波市左衛門は、組頭重政新右衛門、同重政政治郎、同晝田谷治と諮り、且つ千田村の庄屋と協議し、藩の許可を得て、寄附を募集し、湯坂を一間(一・八二メートル)唐丸を九尺(二・七三メートル)切り下げたので、輸送上大いに利を得ることになった。藩主はこれを賞して一代限り苗字を免したという。さもあるべきことであろう。
『神辺町史 前巻(昭和四十七年)』
幕府瓦解後、更に何度か開鑿工事が行われて緩やかな勾配の坂になったおかげで今では自転車でも難なく通過することができる。長年に亘る先人達の苦労を今に伝えるのが唐丸の開鑿碑である。


どちらも日本鋼管(現JFEスチール)が福山に来てから出来たという話だが、土地買収が行われるまでは田んぼが広がっていたそうだ。

親会社の正門から南側が唐丸(とうまる)の坂で道路脇に大きな石碑が建っている。江戸中期までは湯坂・唐丸の2つの峠越えはかなりの難所であったことが『神辺町史 前巻』に記されている。
福山藩領では、その米を二俵ずつ担うて湯坂の峠を越え、福山築切における藩の倉庫に運んだ。牛や馬を有するものは一頭が三俵を背にのせて行くので輸送上甚だ優位であった。
当時、湯坂や唐丸の峠は、石段を上って越えるという悪路であったから、天明五年(一七八五)川南村の庄屋菅波市左衛門は、組頭重政新右衛門、同重政政治郎、同晝田谷治と諮り、且つ千田村の庄屋と協議し、藩の許可を得て、寄附を募集し、湯坂を一間(一・八二メートル)唐丸を九尺(二・七三メートル)切り下げたので、輸送上大いに利を得ることになった。藩主はこれを賞して一代限り苗字を免したという。さもあるべきことであろう。
『神辺町史 前巻(昭和四十七年)』
幕府瓦解後、更に何度か開鑿工事が行われて緩やかな勾配の坂になったおかげで今では自転車でも難なく通過することができる。長年に亘る先人達の苦労を今に伝えるのが唐丸の開鑿碑である。

