4月25日(金)から福山市丸之内のふくやま文学館で北杜夫どくとるマンボウ昆虫展が開催される。6月7日には娘さんの講演会も行われるとの事。北さん(故人)の自伝的小説『どくとるマンボウ青春期』には昭和19年~20年の身近な出来事が詳しく書かれており、昆虫標本の話も出て来るので一読をおすすめする。
学徒動員で行っていた工場生活、それは決し遊びではなかった。太い鉄材を運ぶには肩の皮膚をすりむいたし、旋盤にむかって油まみれになっているさまは、平和な時代の学生がボーリングに興じているのとはおのずから異なるものがあった。
私たちは米英撃滅の念に燃えた小さな産業戦士のはずだったが、反面、戦争の与えた自堕落な休暇を愉しんだことも争えない。
空襲警報のときだけが、私たちの息抜きであった。防空壕が手狭なため、学徒だけは近くの愛宕山に待機してよいことになっていた。
怠けることは怠けたが、私たちはなんのためらいもなく「葬れ米鬼」「一億玉砕」の念に捉われていた。そういう私たちが廻し読みをした本に『昭和風雲録』がある。
私たちは、小さな子供で何もわからなかった五・一五事件を、二・二六事件を、昭和維新の観念を、この本で読んだ。
『昭和風雲録』の意味はどうあれ、とにかくそこには私に未知だったことが書かれていた。それが私に、もっとほかの本を読んでみたらと、誘いかけた。
幸い、一月に繰上げの上級試験があり、私は旧制松本高等学校に合格していた。おし迫った戦局から、そのまま中学の動員先で働いているものの、考えてみれば、私はかつて多摩川の土手で見た貧乏神のごとき高校生と同じ身分になっているのであった。
父は疎開し、兄は兵隊に行っていた。奉公人もいなくなっていた。がらんとした家の中に、母と私と妹だけが暮らしていた。
…五月二十五日の夜間空襲で私の家が焼けた。…私は火の粉が目に入り、翌朝まで半盲となった。
猛火が迫ってきて、いよいよ逃げようとしたとき、私は停電でまっ暗な家の中から、数冊の昆虫の図鑑類と以前に買いだめておいた虫ピンのはいった小箱を運びだし、庭に積んであった砂利の山の下に埋めた。それらは焼け残ったが、平和な時代になって私は何百回となく愚痴をこぼした。それまで私の蒐めた昆虫標本は百箱に達していたし、その中には一生採集をつづけても手に入りにくい珍種もかなりあった。それらの珍種だけでも小さな箱に入れておいてなぜ持ちださなかったのか、と。
焼跡では、病院のガレージだけが原形を留めた。私は焼ボックイで、その扉に自分らの移転先を、「右に転進す」と記し、友人宛に「おれは死なんよ」などと書き、そのあとに得意の「憂行」の文字を記した。
私にとっては『どくとるマンボウ青春期』が北さんが読んだ『昭和風雲録』と同じ価値を持っていたと言ってもいい。海なし県で私が複数回訪れているのは長野と滋賀だけである。両県は自然に恵まれ独特の食文化もあり非常に魅力的だ。展示会に足を運んだ後、長野県(松本や穂高)を旅行する人は多いだろう。
学徒動員で行っていた工場生活、それは決し遊びではなかった。太い鉄材を運ぶには肩の皮膚をすりむいたし、旋盤にむかって油まみれになっているさまは、平和な時代の学生がボーリングに興じているのとはおのずから異なるものがあった。
私たちは米英撃滅の念に燃えた小さな産業戦士のはずだったが、反面、戦争の与えた自堕落な休暇を愉しんだことも争えない。
空襲警報のときだけが、私たちの息抜きであった。防空壕が手狭なため、学徒だけは近くの愛宕山に待機してよいことになっていた。
怠けることは怠けたが、私たちはなんのためらいもなく「葬れ米鬼」「一億玉砕」の念に捉われていた。そういう私たちが廻し読みをした本に『昭和風雲録』がある。
私たちは、小さな子供で何もわからなかった五・一五事件を、二・二六事件を、昭和維新の観念を、この本で読んだ。
『昭和風雲録』の意味はどうあれ、とにかくそこには私に未知だったことが書かれていた。それが私に、もっとほかの本を読んでみたらと、誘いかけた。
幸い、一月に繰上げの上級試験があり、私は旧制松本高等学校に合格していた。おし迫った戦局から、そのまま中学の動員先で働いているものの、考えてみれば、私はかつて多摩川の土手で見た貧乏神のごとき高校生と同じ身分になっているのであった。
父は疎開し、兄は兵隊に行っていた。奉公人もいなくなっていた。がらんとした家の中に、母と私と妹だけが暮らしていた。
…五月二十五日の夜間空襲で私の家が焼けた。…私は火の粉が目に入り、翌朝まで半盲となった。
猛火が迫ってきて、いよいよ逃げようとしたとき、私は停電でまっ暗な家の中から、数冊の昆虫の図鑑類と以前に買いだめておいた虫ピンのはいった小箱を運びだし、庭に積んであった砂利の山の下に埋めた。それらは焼け残ったが、平和な時代になって私は何百回となく愚痴をこぼした。それまで私の蒐めた昆虫標本は百箱に達していたし、その中には一生採集をつづけても手に入りにくい珍種もかなりあった。それらの珍種だけでも小さな箱に入れておいてなぜ持ちださなかったのか、と。
焼跡では、病院のガレージだけが原形を留めた。私は焼ボックイで、その扉に自分らの移転先を、「右に転進す」と記し、友人宛に「おれは死なんよ」などと書き、そのあとに得意の「憂行」の文字を記した。
私にとっては『どくとるマンボウ青春期』が北さんが読んだ『昭和風雲録』と同じ価値を持っていたと言ってもいい。海なし県で私が複数回訪れているのは長野と滋賀だけである。両県は自然に恵まれ独特の食文化もあり非常に魅力的だ。展示会に足を運んだ後、長野県(松本や穂高)を旅行する人は多いだろう。