寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

北杜夫どくとるマンボウ昆虫展(ふくやま文学館)

2014年04月11日 | 日記
4月25日(金)から福山市丸之内のふくやま文学館で北杜夫どくとるマンボウ昆虫展が開催される。6月7日には娘さんの講演会も行われるとの事。北さん(故人)の自伝的小説『どくとるマンボウ青春期』には昭和19年~20年の身近な出来事が詳しく書かれており、昆虫標本の話も出て来るので一読をおすすめする。

 学徒動員で行っていた工場生活、それは決し遊びではなかった。太い鉄材を運ぶには肩の皮膚をすりむいたし、旋盤にむかって油まみれになっているさまは、平和な時代の学生がボーリングに興じているのとはおのずから異なるものがあった。

 私たちは米英撃滅の念に燃えた小さな産業戦士のはずだったが、反面、戦争の与えた自堕落な休暇を愉しんだことも争えない。

 空襲警報のときだけが、私たちの息抜きであった。防空壕が手狭なため、学徒だけは近くの愛宕山に待機してよいことになっていた。

 怠けることは怠けたが、私たちはなんのためらいもなく「葬れ米鬼」「一億玉砕」の念に捉われていた。そういう私たちが廻し読みをした本に『昭和風雲録』がある。

 私たちは、小さな子供で何もわからなかった五・一五事件を、二・二六事件を、昭和維新の観念を、この本で読んだ。

 『昭和風雲録』の意味はどうあれ、とにかくそこには私に未知だったことが書かれていた。それが私に、もっとほかの本を読んでみたらと、誘いかけた。
 幸い、一月に繰上げの上級試験があり、私は旧制松本高等学校に合格していた。おし迫った戦局から、そのまま中学の動員先で働いているものの、考えてみれば、私はかつて多摩川の土手で見た貧乏神のごとき高校生と同じ身分になっているのであった。
 父は疎開し、兄は兵隊に行っていた。奉公人もいなくなっていた。がらんとした家の中に、母と私と妹だけが暮らしていた。

 …五月二十五日の夜間空襲で私の家が焼けた。…私は火の粉が目に入り、翌朝まで半盲となった。
 猛火が迫ってきて、いよいよ逃げようとしたとき、私は停電でまっ暗な家の中から、数冊の昆虫の図鑑類と以前に買いだめておいた虫ピンのはいった小箱を運びだし、庭に積んであった砂利の山の下に埋めた。それらは焼け残ったが、平和な時代になって私は何百回となく愚痴をこぼした。それまで私の蒐めた昆虫標本は百箱に達していたし、その中には一生採集をつづけても手に入りにくい珍種もかなりあった。それらの珍種だけでも小さな箱に入れておいてなぜ持ちださなかったのか、と。

 焼跡では、病院のガレージだけが原形を留めた。私は焼ボックイで、その扉に自分らの移転先を、「右に転進す」と記し、友人宛に「おれは死なんよ」などと書き、そのあとに得意の「憂行」の文字を記した。

私にとっては『どくとるマンボウ青春期』が北さんが読んだ『昭和風雲録』と同じ価値を持っていたと言ってもいい。海なし県で私が複数回訪れているのは長野と滋賀だけである。両県は自然に恵まれ独特の食文化もあり非常に魅力的だ。展示会に足を運んだ後、長野県(松本や穂高)を旅行する人は多いだろう。

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福山市北本庄・陸軍射撃場跡

2014年04月11日 | 郷土史
福山市立大学附属幼稚園(北本庄2丁目17-13 ※旧福山女子短大・芦水寮西側のテニスコート跡地にできた)前から北へのびる坂道を望む。市立大学の北本庄キャンパス(北本庄4丁目5-2)などの施設が建ち並ぶエリアには戦前陸軍の射撃場があった。

福山市立大学北本庄キャンパス

福山市立大学北本庄キャンパス2


 本庄町宮本の奥まった谷は…戦争中は陸軍省直轄用地として、小銃や機関銃の実弾射撃訓練場であった。
 軍隊だけでなく、学生も軍事教練の一環として、ここに連れて行かれたものである。学校単位の競技の中から選抜されて、県東部中等学校射撃大会があった。私も中学校の四年生だった五年生だったか、大会出場とあわせて二回ほど行ったことがある。府中から電車で本庄駅を降り、田の畝道のような記憶のある細い道を射撃場に向かった。芒々と身を没するような草が茂って、隊伍を組んで始めてその草原に入った…。看的壕に向かって右側は安全の為に堤防が続き、人が一人か二人くらい歩ける小道が伸びていた。看的壕はコンクリートに三面囲まれて空が細長く頂上に口をあけていた。
 本庄の射撃場は、軍の油脂類を積み上げてあったそうで、福山空襲の際目標になった。おかげで本庄・木之庄・吉津方面はそのトバッチリを受け、当時の弾丸の残る庭木をもつ家が今もある。戦災地域となったのである。

『いとしき故郷 ‐本庄・木之庄・北吉津‐ / 鎌田一(平成四年)』

射撃場周辺の地図

被災地図

市立大学北本庄キャンパスの前身は市立女子短大だが、もともとは増川学園が運営する増川高校と福山女子短大が併存した場所である。経営難から前者は県に、後者は市に移管され名称も変わった。私が高校生の時には県立北陽高校(その後移転して福山明王台高校となる)という名称だった。この坂道が忌まわしき高校のマラソン大会の終盤コースとして組み込まれていたことを久々に思い出した。私は苦笑しながら自動車学校の方へと向かった。

東洋自動車学校

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総社市岡谷・ギリギリ山古墳 

2014年04月11日 | 
ギリギリ山古墳(持坂二〇号墳)の説明板には(都窪郡)山手村という地名が記載されているが、平成17年(2005)3月22日に総社市と合併して村は消滅した。旧山手村岡谷、同村西郡は現・総社市岡谷、西郡である。

説明板

もともとは西郡にあった直径30mほどの円墳だが、県道整備の際に発掘を行いこの地に移して横穴式石室を復元した。六世紀中葉の造営との事で被葬者は不明である。

ギリギリ山古墳

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