寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

町おこしの失敗例

2014年04月08日 | 日記
「ここは素晴らしい町ですよ」と住民がしたり顔で語る地は実際真逆であることが多い。彼らの発言の裏に見えるのは「自信の無さ」だ。恥部を覆い隠そうとすればするほど賢者にはバレれしまうのに。

故に極度のコンプレックスを持つ者だけが町おこしに関わると悲惨な結果を生む。予算がつけば町が良くなると盲信する輩は身銭を切ることも無いし責任を取ることも無い。常に自分の逃げ道と言い訳を用意し優秀な人間を排除する。福山維新の会代表がよく嘲笑のネタにする「低レベルな役所」と構造は全く同じだ。

「血の濃さ自慢」や「自己顕示欲」が町潰しに直結する危険性。ナルシスト太宰が最後まである文学賞を欲しがったのとは対照的に漱石は文部省からの博士号をしつこく断った前例から愚者は学ぶべきである(笑)

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総社市三須・作山古墳(後編)

2014年04月08日 | 
作山古墳の西側まで回り込み歩道の脇に自転車を置く。古墳の頂へ続く小道の手前に足元注意の標識が出ていた。

古墳上の木々

広場

木々の中を抜けしばらく歩くと広場に至り総社市教育委員会が作製した説明板が隅の方にあった。作山古墳は大正十年(1921)年3月3日に国指定史跡となっている。 

説明板


 独立丘陵を加工して造られた作山古墳は、造山古墳(岡山市所在、全国第4位、岡山県下最大の前方後円墳)に次いで、5世紀中頃に築かれた全国第9位、岡山県下第2位の規模を誇る前方後円形のお墓です。

 自然の景観の中にそびえ立つ巨大なモニュメントは、作山古墳の南方に存在したと考えられている古代山陽道に先行する道を行き交う人々に、吉備の大首長の権力を誇示したものと思われます。
 しかしながら、作山古墳は、正円形の後円部をもち前方部の形態も整った畿内の大王墓や造山古墳に比べ楕円形で前方部の前端が台形に突出するなど不整な形態をもっています。これは、長さと幅が不十分な自然丘陵をできるだけ手をかけず、巨大にみせようとしたことによるものと思われます。

 なお、作山古墳には、盗掘された大きな穴は存在しないことから、古墳の主は今も後円部の中央地下深くに眠っているものと思われます。

作山古墳と造山古墳との比較

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福山市北本庄2丁目16・阿部正方公小坂山墓所(後編)

2014年04月08日 | 郷土史
ジュネス北本庄の横を通ってコンクリートで舗装された坂道を上って行く。小坂山墓所の標識が立っているのでゲートを開けて入山する。

小坂山墓所

小坂山墓所2

登山を始めてまもなく常夜灯やこじんまりした鳥居を配置した墓所が現れる。福山九代藩主阿部正方公の墓の前には鷹の羽会による説明板が設置してあった。

説明板

藩主は二十歳という若さで身罷り明治三年小坂山に改葬された。正方公の経歴・業績については『新版 福山城 / 福山市文化財協会(2006年)』の記述を引用させてもらう。

九代 阿部正方 文久元年(一八六一)- <六年五ヵ月> - 慶応三年(一八六七)
 正寧の二男で、正教の弟、十四才で封を継いでいる。
 …元治元年(一八六四)、長州征伐のことが起こると、譜代大名の故をもって征長の軍にしたがう。長州が降って軍を福山にかえす。
 慶応元年(一八六五)から福山沖の干拓を行ない、いわゆる大新涯四百余町歩を開き、富国の策を進める。
 慶応二年、再び長州征伐のことが起こり、正方も藩兵を率いて三次から石州に入り、浜田・益田で戦っている。…幕府の軍は各地で敗れ、福山も十数人の死者を出している。将軍家茂の死で征長の兵も停められ帰藩した。こうした心労も重なり、慶応三年十一月正方は福山で死去している。
 これより先、十月、徳川氏は大政を奉還し、長州は討幕の軍を用意して東上の気配を示し、あわただしい時局の中で、藩は色を失って喪を秘して葬儀も行わず、小丸山に仮埋葬をなし、後、慶応四年(一八六八)五月になって喪を発している。…
 …慶応四年(明治元年)正月、長州は討幕の軍を進めて、福山藩の動向を問うと正月九日払暁福山城に迫った。城内は正方の柩を安置し、重臣鳩首して議決せず、銃弾は城内に落下し、天守閣にも砲弾が命中するなどまさに決戦となろうとしたが、藩論を勤皇にまとめ、正使を三浦義建、副使を関藤藤蔭とし、講和の使として長州軍の総長杉孫七郎と会して、ついに討幕の軍に加わることとなった。そして、薩長軍と合して伊勢松山に進軍することとなり、さらに転戦して函館にまで軍を進めることとなるのである。

 なお、九代正方を除き、阿部家の各藩主は浅草西福寺に葬られている。

小坂山墓所3

幕藩体制が崩壊すると譜代大名だった福山藩は明治政府から冷遇され十万石の城下町はしばらくの間低迷することになる。私は墓に手を合わせて「敗者の側から見た歴史を学ぶことはより重要だ」と呟いた。

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